品川区・荏原区における工業の発展

662 ~ 665

第一に満洲事変をきっかけにした軍需産業の拡大、第二に金輸出再禁止(金本位制からの離脱)による為替相場の下落による輸出の増大という二つの要因を与えられて、日本の工業は昭和五年(一九三〇)前半かなり大幅に発展した。それまで繊維工業を中心にしていたものが、しだいに機械工業や化学工業などの重工業が飛躍的に成長した。その結果工場労働者の男女の比率が明治以来はじめて逆転し、男子が女子より多くなったし、市郡併合の昭和七年には、東京の工業生産が大阪のそれを追いこして全国第一位になった。品川区・荏原区における工業の発展も、こういった全体の工業の動向の一環をなすものであった。とくに、品川区は当時の三五区のなかでも最も工業の発展した地域の一つであった。たとえば昭和七年、工場数では本所区・芝区についで三番目に多かったし、労働者数では本所区についで二番目、工場数・労働者数とも新市域の二〇区のなかでは首位であった。生産高では三五区中七番目、新市域二〇区のなかでは三番目であった。労働者や工場の数の多いのにくらべて生産高がやや少ないのは旧品川区の工場が後にみるように、小規模の工業、中小工場が多かったことを示している。

第177表 業種別工場数
昭和 7年 12年
地域 品川 荏原 両区計 品川 荏原 両区計
業種
総数 628 136 664 1,011 209 1,220
機械 360 74 434 566 129 695
金属 100 10 110 189 27 216
化学 51 12 63 92 15 107
紡績 21 12 33 27 12 39
製材・木製 15 2 17 34 8 42
食料品 18 9 27 7 7
窯業 18 18 16 1 17
印刷・製本 7 3 10 14 1 15
その他 38 12 50 9 9

(「東京府統計書」より作成)

 さらに品川区の工場は昭和五年から数年間に、さらに飛躍的な発展を遂げ、昭和十二年には、労働者数では三五区中首位に、工場数・生産高では三位になった。他方、荏原区は、これらの指標ではいずれも三五区のなかでも後から数えた方が早く、工場数では少ない方から十二~三番目、労働者数と生産高では、昭和七年に五~六番目、昭和十二年七~八番目であった。

 ところで、品川・荏原の工場工業は、どんな業種で構成されていたのだろうか。「東京府統計書」でみると、工場の過半数が機械工業である。それらのなかには、電動機の明電舎大崎工場・軸受の日本精工大崎工場・光学機械の日本光学大井工場・三菱重工業東京製作所・沖電気・日本無線・荏原製作所など各業種部門で日本の工業の主力となった企業の工場が少なくなかった。

 機械・金属の次に多い工場は化学だった。日本ペイント・星製薬・三共製薬などが化学工場の主力だった。そのほか明治ゴム・森永製菓などの、従業員数一〇〇人を擁する当時としては大工場が、かなり集中していた。

 これらの巨大企業の大工場は、中国大陸への侵略戦争の拡大ならびに軍備拡充近代化につれて増大する軍需によって、ますます巨大化し発展していった。現品川区地域における当時の工業の発展の主要な側面は、これらの軍需産業の拡大、発展であった。

 品川区では大企業の発展が著しい反面、工場の規模別構成でみると、従業員三〇人未満の小企業ないし家族で従事する零細な家内工場が、各業種にわたって八割から九割を占めていた(第178表)。たとえば、品川の代表的工業である電球を中心とする電機工業をとってみると、全体で三四五企業のうち、従業員三〇〇人以上は一企業であり、一〇〇人から三〇〇人以下ではわずかに九企業にすぎず、一九人以下の小規模企業がおよそ二七〇に及んでいる。

第178表 主要業種別従業員数規模別工場数
業種 昭和年 30人未満 30~50 50~100 100~300 300~500 500~1,000 1000人以上
機械 7 366 32 20 14 1 1 1
12 575 56 36 26
金属 7 98 6 3 3
12 190 17 2 5 2
化学 7 48 10 2 2 1
12 88 7 4 6
紡績 7 28 4 2 1
12 30 1 4 1 1

(「東京府統計書」より作成)