輸出電球工業の発展

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一九三〇年代世界の列強が大恐慌の打撃で苦しんでいるなかで、日本は深刻な農業危機・社会不安をかかえながらも、綿紡績業は為替相場の下落と産業合理化による低賃金競争力の強化によって、イギリスを追いこし、綿糸では世界第一位、綿布ではアメリカ合衆国に次ぐ第二位へと躍進するという側面をもっていた。これは一九三〇年代における不均等発展の法則のあらわれでもあった。綿紡績業を中心にした輸出産業の発展は、この時期の日本経済のもう一つの特徴であった。品川区・荏原区を中心にした輸出電球工業も、ちょうど、この準戦時体制に一つのピークを迎えた。

 電球工業は現品川区地域の代表的な産業であり、第一次大戦以降急速に発展した輸出雑貨の一つであった。一般家庭電球はマツダランプ=東京電気の独占的支配のもとににぎられていたが、小型電球、とくに豆電球は生産も比較的簡単で製造技術の習得も容易であり、生産設備も簡単で、小資本でまかなえるために、中小企業ないし零細業者が主力をなしていた。

 これらの豆電球製造業者が、明治末から大正初めにかけて、東京市芝区や品川・大井・大崎に続々と生まれた。また硝子工場などの関連産業もそれにともなって発展した。懐中電灯の普及、さらに大正三年(一九一四)第一次大戦が始まると、アメリカ合衆国やロシアから豆電球の注文の殺到によって、豆電球工業は、飛躍的な拡大発展をとげた。米国とロシアからの注文は、電球工業が輸出産業として登場するきっかけとなった。とくにロシアからの軍事用豆電球四〇〇〇万個の大量受注は、品川・芝中心の零細な豆電球製造業者が人手をかき集め、下請外注をふやし、連日連夜、夜なべの連続で、ようやく間に合わせることができた。材料不足が生じ、とくに硝子材料の争奪は甚しかった。


第133図 昭和9年10月2日芝園橋際の総同盟本部で輸出電球「共同販売」反対の気勢をあげている業者たち。

 時期は少しずれるが、総同盟の機関誌「産業と労働」昭和九年八月号に、赤松常子の大崎町の極東硝子工場のルポルタージュがのっている。この工場は従業員一五〇人、うち婦人五〇人、関東電球硝子産業労働組合に加盟し、極東支部を結成していた。豆電球の材料を製造する管引き場は、東西三〇間もある細長い作業場で、一方の隅にあるルツボから一定量の溶けたガラスを金竿の先にとって、それを吹き吹き後向きに早足加減で引き伸ばし、固まるとガラス管になる。それが少女の手によって二尺余りの長さに切られ、豆電球の材料となると書かれている。

 後に英・仏などのヨーロッパからも豆電球(クリスマスツリー用)の注文が殺到し、果物型・花型の装飾用小型電球など変型電球の輸出が盛んになってきた。大正八・九年ころから一般照明用・自動車用の電球も輸出されるようになった。

 大正十五年=昭和元年輸出された電球数量三、〇四〇万個、三〇〇万円未満だったものが、昭和七年は二億七二四五万五〇〇〇個と九倍、金額では一〇〇〇万円強と三倍に急増した。

 このような急激な輸出増加をもたらしたのは、金輸出再禁止による円安、昭和二年G=Eのタングステン線の特許権、昭和六、七年にイギリス・米国のガス入電球の特許権がそれぞれ満期になったこと、さらには大正十四年国際電球カルテルの圧迫にもかかわらず、日本の業者はかえって唯一の有力なアウトサイダーであることができたなどの、いくつかの原因があげられよう。しかしアメリカではダンピング法の適用、G=Eの半値値下げ、ドイツの電球新税・輸入割当制の実施、仏などの原産国名標記の強制などの対抗措置がとられた結果、昭和九、一〇年にかけて一時期、輸出減少傾向が生じた。輸出に依存している電球業界、関連産業部門はたちまち不況風が吹き、とくに零細な業者ほど、その打撃を強く受けた。電球ガラス製造業などでは「昨日はあすこでかまの火を落した。今日はどこでもおとしたそうだと毎日どこかで俺達兄弟の職場が失われてゆく。それはただ不景気だからという。俺はこの言葉だけでは満足できないような気がする。大資本の圧迫に対する小資本の没落。そこに何とかすべき問題があるのではないかと思う……。」関東電球硝子産業労働組合大崎第三支部平井新太郎という一労働者の投稿が、そのころの雰囲気を的確につかんでいる(『産業と労働』昭和九年十一月号)。ソシアル=ダンピングという言葉が流行語になったのも、このころであった。

 日本でも昭和九年輸出品取締規則にもとづく強制検査の適用、対英輸出協定の締結、昭和八年日本電球工業組合連合会の設立、傘下の工業組合、たとえば東京市の電球製造業者で組織する関東電球製造工業組合による品質・生産面での統制、または日本電球輸出組合による各種輸出統制などの対策を講じた。その効で、昭和十一・十二年は輸出数量は最高記録を示した。金額においてはそれほど伸びなかったが。

 東京市の電球製造業者で組織する関東電球製造工業組合二四八業者のうち一五三業者(六割)が品川区・荏原区で占められ、一一支部のうち、五支部が現品川区にあった。これは現品川区地域が、電球工業の中心地であったことを物語っている。

 『関東電球製造工業組合発達史』によれば、この組合の、日本の輸出電球業界における生産実績についてつぎのように述べている。

 

 「本組合の生産力は……各種電球日産合計約九七万七、一八〇個、一年を三〇〇日と見て通算すれば、年産約二億九、三一五万個、しかしこのうち調査の誤差および内地向生産を合計二割とするも、二億三、五〇〇万個に達するわけで、九年度総輸出高の約九割、金額にして約七割を本組合で製作輸出している計算であった」。

第179表 関東電球製造工業組合の品種別組合員数(昭和10年)
品種 豆球 トンガリ球 小型変形球 自動車球 大型変形球 家庭球
支部別
大森支部 9 1 0 1 0 0 11 153
大井〃 30 2 2 3 3 1 41
大崎〃 8 1 1 4 1 2 17
品川〃 33 2 1 0 2 0 38
中延〃 13 3 1 2 2 2 23
戸越〃 17 9 4 1 0 3 34
目黒〃 10 2 5 3 3 5 28
渋谷〃 6 2 2 1 2 3 16
淀橋〃 7 0 2 1 0 0 10
本郷〃 8 1 1 4 0 1 15
荒川〃 15 0 0 0 0 0 15
156 23 19 20 13 17 248

『関東電球製造工業組合発達史』より作成

 しかしながら平和産業としての電球産業の発展も昭和十一年までで、昭和十二~三年になると、東京の輸出電球は戦争の影響をもろにうけるようになる。第180表は昭和十一年、十二年の組合の輸出状況であるが、豆球はこの一年の間に生産個数、生産額ともにほぼ半分に落ち、小型変形球になると四分の一以下に落ちこんだのである。これは昭和十二年になると、うちには過剰生産とダンピングによる電球価格の値下がりがあり、そとには電球の仕向地であった米国の恐慌(一九三八年)や、列国の経済ブロック化のために、輸出市場を失うことになったからである。全国的にみても輸出電球の生産は、昭和十二年を頂点として太平洋戦争末期にかけて、低下の一途をたどるのである(第181表)。

第180表 関東電球製造工業組合の輸出状況(昭和11・12年)
年次 昭和11年 昭和12年
種類別 個数 生産高(円) 個数 生産高(円)
家庭球 6,000,000 372,000 5,000,000 400,000
自動車球 9,000,000 324,000 8,000,000 320,000
中型変形球 15,000,000 615,000 6,500,000 260,000
小型変形球 67,500,000 1,856,250 15,000,000 405,000
豆球 135,000,000 1,350,000 75,000,000 750,000

(『関東電球製造工業組合発達史』より作成)

第181表 昭和元年~20年の電球輸出状況
年次 数量(千個) 金額(千円)
昭和元年 30,403 2,956
2  40,172 3,223
3  66,308 4,533
4  96,759 5,400
5  101,596 5,316
6  151,463 5,875
7  273,455 10,187
8  272,425 10,167
9  226,380 8,942
10  193,968 7,637
11  314,169 9,847
12  315,157 10,646
13  183,313 6,797
14  153,650 7,739
15  161,592 10,300
16  63,492 5,683
17  25,004 5,505
18  12,627 4,702
19  9,477 6,141
20  1,118 1,200

 (大蔵省「貿易統計年表」による)

 昭和十二年、日本は日中戦争によって全面的な戦争体制に入り、それにともなって物資の軍需優先、民需の統制が一層強化された。その柱となったのが昭和十三年の物資動員計画である。政府はこの計画について、「長期持久の戦時体制を確立」するため、「軍需品および輸出原料充足を優先する」経済統制を強化する意向を示した。そして輸出入品等臨時措置法にもとづいて、物資統制が全面的に実施されたのである。金属・燃料・繊維・木材など広範囲の物資の国内における消費が制限された。基礎資材である鉄鋼もまた民需はきびしくおさえられた。民需の制限のきびしさは未曽有のもので、そのために、生産においても生活においても、国民精神総動員運動が徹底して展開されねばならなかったのである。

 この戦時体制のなかで、電球産業は致命的な打撃をうけることになった。同じ十三年には銅使用制限規則が公布され、これに基づいて使用制限品目として文房具など二六〇品目がきめられた。そして翌年五月には、電球に対して銅使用制限令が実施された(口金真鍮の使用禁止)。これには植民地である関東州・満洲・支那向け輸出電球は除外された。電球の口金の材料を奪われた電球生産者は、輸出不振のさなかに大きな痛手となった。

 関東電球製造工業組合の組合員がどのような状況におかれたか、まとまった記録がないけれども、組合は多数の零細な下請け業者をかかえていたから、多くの組合員が廃業に追い込まれて転業するか、あるいは職人として、より大きな企業に吸収されていった。たとえば大阪の松下電器とか、東京芝浦電気に電球製作の技術をもった職人として就職した人もいた。組合に残った比較的規模の大きい生産者六五人は、問屋あるいは輸出業者からなる日本電球工業組合連合会に加入し、材料供給・価格・輸出といったすべての面で、一元化した連合会の統制下におかれることになった。

 日本電球工業組合連合会は、銅の使用制限のために口金の代用品として鉄材をあてることにし、商工省の指導のもとに鉄鋼連盟から帯鉄の供給をうけることになった。口金については生産者の間で磁器製の口金の開発が試みられたが、実用化するにはいたらなかった。また、廃電球を回収することによって、口金の再生使用がおこなわれ、東京と大阪で、それぞれ廃電球商業組合、廃電球再生工業組合がその仕事にあたった。第182表は昭和十六年に、連合会が物資動員計画にもとづいてつくった計画生産量を示すものである。この年になると、計画輸出個数はわずかに植民地向けの一、二〇〇万個にすぎない。これは発展期の関東電球製造工業組合の輸出個数の二〇分の一である。かくして「世界の夜を照らす」といわれた日本の輸出電球産業は、軍需のために民需産業を整理する目的で実施された企業整備令の重圧のもとで、満州・中国など円ブロック向け輸出によってかろうじて露命をつないだのである。

第182表 電球の計画生産数量(1年分)
種類 内地向 中国向 合計
一般照明用電球 150,000,000 10,000,000 160,000,000
特殊大型変球 13,300,000 13,300,000
特殊中型変球 9,500,000 360,000 9,860,000
自動球 8,000,000 600,000 8,600,000
豆球 69,000,000 900,000 69,900,000
249,800,000 11,860,000 261,660,000

(『日本電球工業史』より作成)