産業合理化と労働争議の激発

671 ~ 674

大恐慌を切り抜け、輸出を拡大するためにも、産業の合理化が重要な国の政策として打ち出された。昭和五年六月には、商工省に臨時産業合理局が、産業合理化政策の指導機関として新設され、企業の統制、企業の経営管理改善、規格統一および単純化、国産愛用などを主な方策とした。労働者には賃金切下げ、労働密度の増大、失業をもたらす資本家本位の政策であったため、産業合理化によって労働争議はいっそう激増する結果をもたらした。

 昭和になって、現品川区地域で起こった主な労働争議をみてみると、昭和二年大崎町の東洋電業株式会社の請負単価八割もの値下げに対抗し、東京鉄工組合大崎第三支部を結成しての賃上要求、荏原町小山の乾電池、輸出電球製造販売業鈴木商会の組合幹部解雇と全員解雇に反対するストライキ(総同盟)。昭和四年、鈴木商会の労働者と同じく中央合同労働組合の玉川水道株式会社従業員一六〇名の争議などである。

 とくに、昭和三年二月二十日の総選挙の投票日をめぐり、日本光学工業豊岡工場、大井工場で一風変わった争議が起こった。日本労働組合評議会や労働組合同盟は、投票日を日曜日にせず月曜日にしたのは、労働者の投票を妨害するためだと攻撃、投票日の有給休暇を獲得するよう指令した。評議会・関東金属労働組合傘下の日本光学の労働者は、積極的にこの闘争を進め、会社側が組合幹部を出勤停止処分にしたことから、争議は大きくなり、大井工場の労働者もこの闘争に同調して立ち上がった。両工場の労働者はさらに労働時間短縮、退職手当増額、解雇手当制定、健康保険法改正などを要求してストライキに入った。だが、ストライキは選挙の後まで続き三日を迎えた。

 日本光学大井工場の職工横井亀夫は、共産党の大井工場の細胞のキャプテンだった。かれらはストライキに際し〝戦闘的青年労働者に訴う〟と題したよびかけの宣伝ビラを労働者に配付した。それには同工場が軍需品を生産するのでストの意義は甚だ重要である。したがって、この闘争に負けないよう努力をよびかけた。共産党は、この争議を重視していた。

 昭和三年(一九二八)三月十五日未明、この争議を指導していた菊田善五郎の家に刑事がふみこんだ。

 「私は、赤坂に住んでいて日本光学大井工場の争議を指導していたのですが、赤坂署の刑事六人が来て、家宅捜査を始めたのです。私は、ただごとではないなと思ったのですが、何気なく〝光学のストでこんな大騒ぎをするのか〟と言ったら、安心したようでした。家内に戸外の様子を見させたら、警戒していないというので、便所に行くふりをして駈け出してしまいました。私は、円タクをひろって兄貴の家に行き、金をもらって銀座裏のちょっとした二階家の渡辺政之輔のかくれ家に行ったのです。丹野さん(渡辺夫人セツ)がいて、百円ほど交通費をくれましたので、それから水野成夫・村尾薩男・渡部義通らの家を回ってみました。ところが、みんなつかまったあとなのです。……」

 横井亀夫はじめ、関東金属労働組合執行委員長松尾直義(荏原区小山町五二五番地)、同じ組合の常任執行委員市村光雄(品川区大井宮本町四五二二番地市村寅次郎方)らも検挙され、指導者を失った日本光学争議は労働者側の敗北に終わった。

 このときの模様を、当時荏原町民の一人だった評議会中央執行委員長野田律太は「評議会闘争史」のなかで次のように記している。かれは遊説中の神戸で十四日検束され、八日目に釈放され帰京した。三月十五日の一せい検挙で、「評議会の本部は、帰ってみればじつにさんたんたるものであった。本部も地方評議会も各組合も、常任委員はもちろんのこと、その他の幹部も書記も、一人残らず全滅していた。だが、本部にはそれでも鈴子さん(中村義明夫人)と学生と、少年組合員との四、五名が頑張って、この嵐のなかで〝本部を死守〟しておってくれた。……私はいろいろ様子をたずねたうえで、非常時の組織として、私自身が地方評議会と関東金属労働の執行委員長を兼ねることとし、若干の執行委員を任命して陣容をたてなおし、あくまで合法性を守るようにした。そして全国の加盟組合に対し、組合の情勢報告を至急送るように指令した。

 ……宅へ帰ってみると宅の方もあわれな姿だった。私の宅(荏原町小山)の近所には、野坂参三・中村義明・松尾直義の諸君の宅があり、なお労農党書記局の諸君もたくさん住んでいたのだが、それが全部同じ時刻に襲撃され、男は一人残らず検挙され、あとは厳重な家宅捜索を受けたのである。」

 検挙は三月十五日以後もつづいた。評議会に地方からかけつけてくるものは、そのつど検挙され、野田律太も四月一日、大崎警察署に検挙され、出身地の大阪に護送された。

 品川・荏原などの地域で、このとき検挙され、治安維持法違反で起訴されたのは、市村光雄・田中長三郎・酒井定吉・与田徳太郎・有馬毅・斎藤善治郎・園部真一・寺峰弘行・田熊真澄・西島権三郎・村松英男・吉原清一郎・坂本二郎・岡本藤男・小暮元治らだった。

 そのほか沖電気・評議会系関東金属労働組合大崎・田町・芝浦三分会の六六六人四三日のストライキ、総同盟と組合同盟の対立の絡んだ品川製作所争議などが起こった。

 さらに一九三〇年代に入ると、大恐慌で経済危機が深まる一方、合理化ならびに満洲事変の勃発で拡大する日本帝国主義の植民地侵略と、戦争に反対する左翼ならびに大衆の抵抗も強くなると同時に、それに対する官憲の弾圧も厳しさをまし、全体として階級関係ないし労働運動は対立が激化していった。

 品川区・荏原区においても、長期の激しい泥沼闘争的な労働争議が、あいついで起こった。これらの争議は一般区民に不安な世相を現実のものとして示す事件でもあった。