恐慌の厳しさをまざまざとみせつけたのが星製薬争議だった。従業員一、一二二名をもつ大企業星製薬株式会社は、昭和四年(一九二九)夏ごろから事業不振のため、従業員の賃金支払いもとどこおりがちになっていた。昭和五年に入って、いっそう支払いの遅れ方がひどくなったため、四月十六日、第一回の争議が起こった。五月五日ひとまず解決したが、会社側が五月二十九日従業員三六四名に解雇通知を出すに至って、にわかに従業員側は態度を硬化させ、工場隣接の寄宿舎に争議団本部を設置し、本格的な争議となった。労働者を中心にした従業員同盟という組織があったが、これは加藤勘十らの労農党系関東労働者組合の傘下に属していた。職員は別個に社員連盟という組織で、会社側と交渉をはじめた。争議団には自由労働自治会(大沼晴直)や借家人同盟(中田惣寿)はじめ、地域の労働者や町民が応援にかけつけた。六月三日争議団代表と会社重役が交渉を行なっているとき、争議団員が工場構内に入ろうとするのを警察官が消防用ホースで阻止し、怒った争議団員側も投石するなど、力と力の激しい衝突事件を引き起こした。警察は争議団員一三名を検挙した。
また、六月十五日には、全国大衆党幹部加藤勘十ら約三〇名が争議団本部に応援にかけつけ、加藤勘十が争議団員に演説を行なった際に、警察は三五名を検束し、騒擾ならびに公務執行防害罪として、強制処分にするという弾圧を行なった。この警察側の攻勢を背景に会社側は、争議団本部を寄宿舎からほうり出してしまった。
六月二十二日、警察が間に入るという形で、労資の妥協が成立し、三九一名の解雇を認める、解雇手当と見舞金として三万一〇〇〇円支給、将来従業員採用の場合解雇者を優先する、ただし人選は会社側に一任、退職手当については労資双方協議して判定する、賃金の分割・遅延をしないなどの八項目の内容をもつ覚書を取りかわした。
一方、ホワイトカラーの社員と会社間では、その後も引き続き容易に妥協成立せず、九月六日になって、ようやく未払給料・解雇手当などを分割払いするということで落着をみた。
ところが争議団に加盟しなかった社員・職工に対しては、給料・賃金の未払が多額にのぼり、少しずつ分割払いをするありさまだった。たまりかねた労働者たちは、八月二十六日、未払賃金の要求書を提出した。すでに支払能力を失っていた会社は、京橋ビルディングを処分した二〇万円でようやく未払分の六割だけを支払い、残りは会社更生にふり向けることとなった。昭和七年三月にも、従業員四四名解雇からまたも争議が起こった星製薬は、同年一月恐慌の深刻化のなかで、東京区裁判所から破産の宣告をうけ、十二月債権者との和議が不成立に終わり、昭和八年一月ついに閉鎖のやむなきに至った。事業不振に苦しんだ星製薬では、滞納税金にからんで、品川税務署員・大崎町助役らの汚職事件まで引き起こした。
総同盟東京鉄工組合大崎第二支部桑野電機では昭和六年二月に経営管理闘争が行われ同大崎第一支部大和サッシュでは労働者側の勝利に終る争議の発生、同大崎第十一支部佐藤鉄工所賃金支払延期問題など、労働者は続々と闘争に立ち上がった。昭和六年三月二十八日、大崎労働会館で行なわれた大崎支部連合会では、「横暴なる資本家階級は現在の不況を口実に馘首(くび)、賃金値下げ等を断行し、すべての負担を労働者に負わせつつある。我が総同盟下にある大崎支部連合会はよく之を戦い来ったが、なおかつ拡大強化と勇敢なる闘争力を喚起すべく、必ず年次大会を開催する事を決議」した(一九三一年六月号「産業及労働」)。
そのなかで、恐慌下の典型的争議の一つが大崎第十一支部佐藤鉄工所のそれであった。事業不振のため神田の金融業者服部久吉(高利貸)から数万円の借金をしてしまった。昭和六年二月、服部はあたかも事業を続けるかのようによそおい、「一切の労働条件は引継ぎ、今後必らず従業員の生活上の保証をなす」と誓約した。人のよい労働者は、この言葉を信用し、急ぎの仕事は連日連夜の強行軍で仕上げてしまうほど、懸命に働いた。ところが四月中旬突然、工場を閉鎖し、労働者の手当もなにも一切かまわず、逃げようとしたのに対して、労働者は神田美土代町の服部の居住地近くに、争議団本部を設けるという争議に発展した。
また東京鉄工組合高砂支部(大崎第十一支部)は昭和七年一月総会で争議基金積立とともに「産業合理化的機械購入絶対反対」を決議した。
このころ、トーキーに反対する映画争議が激発したのも産業合理化の御時勢だった。機械化によって職を失う羽目に陥った無声映画の弁士や、音楽士はじめ映画館の従業員が解雇反対に起ち上がった。たとえば、昭和七年四月、大蔵興行部や、昭和十年二月大崎キネマなどの争議がこの地域でもみられた。