昭和六年の満洲事変勃発あたりから、軍需産業・輸出産業は活況を呈し、重化学工業を中心に、工場労働者の数はふえたけれども、賃金はじめ労働条件は逆に悪くなる傾向を示した。低賃金の臨時工がふえ、その結果、本工の賃金も切り下げられ、労働時間が延ばされ、定額賃金は昭和元年を一〇〇とすると昭和十年には八一・三まで下がり、実収賃金は九一・一に下がった。
それにもかかわらず「非常時」という世間の風潮は、労働運動を沈滞させていた。美濃部達吉の「天皇機関説」が右翼から槍玉にあげられ、軍部の勢力を誇示するかのように、昭和十年(一九三五)四月五日には、「盟邦満洲国」の「皇帝」溥儀が日本にまねかれた。八月には、相沢三郎の永田鉄山斬殺事件が起こった。
しかし、労働組合は、きびしい条件のもとで、黙って死を待ったのでなくて、労働者の生活を守り、組織を守るために必死の闘いをつづけていた。
荏原製作所の総同盟東京鉄工組合の品川第二支部は、停滞し有名無実の状態にあった。東京鉄工組合主事原虎一は、この組織の再建につとめ、組合員百余人の勢力になったので、一月二十八日支部総会を兼ねて従業員大会を開き、要求をまとめて、二十九日工場長に提出した。工場長は、〝会社は従業員の待遇に関しては常に考慮している。特に会社は工場全員を一丸とする協調団体を組織する意図があるので、その組織を俟って交渉すれば、嘆願の内容も容易に容認せらるるものと思う、この嘆願書は、いちおう取やめてはどうか〟と自分の手許に保留した。組合側は本部と協議の上、あくまで初志貫徹を確認し、石崎支部長から工場長に対して、先の嘆願書を社長に提出するよう交渉、工場長はこれを技師長に取り次いだ。ところが山岸技師長は三月二日、従業員代表と会い、〝会社の待遇は他の軍需品工場に比し優るとも劣らない。それなのに第三者の助力(総同盟を指す)で書面で要求するなど不穏当である。自発的に撤回せよ〟と述べ、嘆願を拒否したばかりか、組合も認めないという態度を明らかにした。
組合はなるべくストライキを避けたいと考え、六日午前一時に品川警察署長に調停を依頼した。ところが会社は組合が介在する限り調停には応じられないと、これを拒否した。前日来、組合大会を開いて、会社側に誠意なしとみてストライキを決議していた組合は、六日始業時からストライキに突入するに至った。
会社側は残留組一六七名と、新しく募集した臨時工を工場内に籠城させて作業を継続する強行策をとった。東京鉄工組合の原主事は、少数のストライキでは先行き苦戦になるとみて、警視庁労働課をたづね、「会社との交渉が再開されるならば、解決点は警視庁に一任し、組合としては労使会見に立会わなくてもよい」と申し入れた。しかし会社側は、争議団全員が組合を脱退しない限り調停には応じないと、警視庁の仲介も拒絶した。
事態がここまでになると組合側も、ついに持久戦を覚悟し、尖鋭な争議戦術をとるに至った。会社門前でデモ行進をして、検束者をだす一方、軍需品工場の関係から、陸・海軍両省にストライキ決行の事情を陳情書で提出、あるいは「国賊ブルジョアを葬れ」という訴えを教育総監部・陸軍省新聞班・麻布三聯隊・陸軍士官学校・待従武官などに郵送したりした。また下請工場である埼玉県川口市の浅見・宇田・長瀬の三鋳物工場、王子区の金子鋳物工場などの従業員に同情ストライキ決起をうったえたりした。会社幹部子弟が通っている学校付近に、ビラまきなどの戦術を行なった。これに対して、畠山社長、山岸・酒井両重役らは、行方をくらまして、争議団との交渉も、警視庁の再三の呼出しにも応じないばかりか、三月二十日と二十三日に分けて、争議団全員の懲戒解雇処分を通告するありさまだった。
たまたま「満洲国皇帝」の入京する四月五日が近づいたことから、帝都の治安を心配した警視庁は、強硬に交渉による解決を労使に申し入れた。警視庁労働・調停両課、品川警察署、さらには渋谷憲兵隊まで介入したが、交渉は容易にまとまらなかった。四月十二日から連続二昼夜におよぶ交渉で十四日朝、ようやく双方の譲歩が行なわれ、解決にたどりついた。六八日におよぶ激しい争議は、
「一、争議団ハ会社ニ対シ遺憾ノ意ヲ表ス
二、要求書ハ之ヲ撤回ス
三、争議ニ参加セル全員一〇六名ノ懲戒解雇ハ之ヲ取消サズ
但シ会社ノ適当ト認メル者二六名ヲ限リ新規採用ス、採用ニ応ゼザル時ハ其数ヲ減ズ
四、会社ハ金一封ヲ提供ス」
という条件で解決した。金一封は五万二〇〇〇円だった。労働者にとってまことに苛酷な条件だったが、迫りくるファシズムの暗い世相を反映した後味の悪い争議だったといえる(「特高月報」昭和十年四月)。