東京に特別の行政区画を布こうとする動きは、明治時代以来のものであり、帝国議会にも、東京都制案がしばしば提出されつづけた。だが諸政治勢力の思惑もからんで、都制の実現は陽の目をみずに推移した。
第一次大戦を契機とする都市人口の増大および関東大震災による隣接町村への人口の移動は、都制実現の機運を高めた。昭和七年(一九三二)十月の市郡合併による大東京市の実現は、早急な都制施行を求める意図をもつものであった。このような状況のなかで、政府は昭和八年三月、第六四議会に東京都制案を提出した。この案は二つの大きな特徴をもっていた(要点は第184表にゆずる)。すなわち、第一は都長官選主義をとっていた点であり、第二には、それにもかかわらず、区に徴税権・起債権を付与するなど、区の自治権拡張をも認めるものであった。この矛盾するかのような二つの特徴のどちらを重視するかによって、この都制案への評価は異ならざるを得なかった。しかもそれは、その後の都制要求運動にも影を落す性格をも含むものといえた。
この案に対して、区側は旧市域一五区と新市域二〇区に若干の差異があるとはいえ、都制の速かな実施を望み、区の自治権拡張に比重を置き運動を続けた。そのさい、新区側は、都制の早急な実現のため、都長官選もやむなしと明言していた。だが衆議院における状況は異なっていた。
多くの議員は、反官僚的な立場から、都長官選に反対しており、区側が陳情を繰り返したが、この都制案は六四議会において審議未了とならざるを得なかった。
しかし区側の都制要求運動は続けられた。昭和九年(一九三四)一月、それまで別々に運動を行なってきた旧市域一五区と新市域二〇区は合流し、東京都制促進全市三五区連盟(以下、都制促進連盟と略す)を結成し、運動の体制を整えた。品川区においても昭和十年一月、区の権限について「中央事務ノ一部ヲ移譲シテ自治権ヲ拡張シ区長ノ公選課税及起債権ヲ認メ」ること、都長選任問題については「現下市政ノ状勢ニ照シ之ヲ官選」とすることを内容とする意見書を提出し、都制の速かな実施を要望した。だが政府が六四議会後、法案提出を見合わせたため、都制要求運動は一頓挫のやむなきに至った。
この間にファッショ化の嵐は吹きまくっていた。二・二六事件以後、都制問題についての内務省の積極的動きが、ふたたび都制要求運動を舞台にのぼらせることになった。昭和十一年十月、内務省地方局は二つの案を発表し、都制問題に波紋を投げかけた。この内務省の両案は、都長官選をとるばかりでなく、区の自治権拡充の要求とも正面から対立するものであった。これに対して東京市会都制実行委員会・府会都制委員会も、それぞれの都制案を発表した。各案の内容は第184表の通りである。
六四議会政府案(昭和八年三月) | 内務省地方局 | 市会の都制案 | 府会の都制案 | ||
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第一案(昭和十一年十月) | 第二案(〃) | ||||
都長 | 官選 | 官選 | 政府の命ずる銓衡委員の推薦による若干名の中から都議会が選挙 | 公選 | 公選 |
都議 | 定数百人 | 現市議定数の半分・任期短縮 | 定数半減 公選以外に選出、政府の銓衡委員の推薦により、内相が決定 |
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区 | 区に徴税権及び起債権を附与 | 課税権は現行・一時借入承認 | 区の自治権拡張・市会の権限の一部移譲・財政権の拡大 | 都の統一を害せざる限度での権能拡張 | |
区長 | 都長官の推薦と区会の承認 | 都の官吏か吏員を都長が任命 | 〃 | 都長が推薦し、区会が決定 | 都長が任命 |
区議 | 人口五万未満三〇人・人口十五万未満三五人・人口十五万以上四〇人 | 定数半減 | 〃 | ||
その他 | 行政区(学区)の廃止 |
この内務省による両案は、第六四議会政府提出案からはるかに後退したもので、区の自治権削減ともいえる内容であった。さらにこの時期、一部の人々からは、区会の廃止までが主張されつつあった。このような動きに対して、都制促進連盟は、区長の公選と暫定的都長官選を唱え、「区会廃止を前提とする町会の法制化は認むべからず」と区自治権擁護を主張し、都制の実現を要望した(『都市問題』昭和十一年十一月号)。だがこの内務省都制案の露骨な官僚中心主義に対して反撥は強まった。品川区議であった仲沢芳朗(市議兼務)は「都制の促進は、永年の希望であるが、自治権破壊の都制案ならむしろ実施せない方が勝れりである」と述べ、都制促進連盟の方向に異議をはさんだ。さらにかれは「都長は公選とし、都民の総選挙によってこれを決定せんと主張した者で、尚世帯主たる女子にも投票権を与へ、自治の本義を遣憾なく発揮せんとする者である」とその説を主張した(『都市問題』昭和十一年十月号)。
これは後述するように、品川区会の都制要求内容の変化の、最初の現われともいえた。このような反対論のなかで、内務省都制案もそのまま立消えとなっていった。
昭和十三年初頭、地租付加税市移管問題が起こり、区の自治権擁護運動は新たな高まりを示した。これはそれまでの区の権限であった地租付加税の課税を禁止し、市がその徴収にあたることとするものであった。これに対して収入減となる区を中心に、大きな反対運動が起こっていったが、それには一定の区のエゴイズムが含まれる面をもっていた。この東京市の案は、三月末市議会で否決され、反対区側の勝利に終わった。これに続いて各区は、自治権擁護連盟の結成にむかっていった。しかしこのような動きにもかかわらず、昭和十二年(一九三七)七月の日中戦争の開始以後、自治権への圧迫は強められていた。昭和十三年四月に出された東京市町会基準は、後述するように区の自治権縮小への動きと連なるものだった。
日中戦争開始後の、国民精神総動員運動、昭和十三年四月の国家総動員法の公布といった状況のなかで、内務省は地方体制の整備を一つの問題としていた。昭和十三年六月、内務省地方局は再度「東京都制案要綱」を発表した。これは先の昭和十一年発表の第一案の線に沿うものであった。しかも今度の案では、それに加えて、区会・町会を都の下級組織として位置づけるいっそう官僚臭の強いものとなっていた。これに対する区側の反撥は強かった。同年八月の品川区会意見書は、内務省案に対して「該案ハ吾人ノ要望ト相去ルコト甚ダ遠ク或ハ帝都自治制ヲ抹殺セムトスル意図ニ出デタルカノ如キ感無キヲ得ザル」ものと強く反対した。そして都長公選、区長の区会での選出、区の権限拡大を主張し、それまでの区長官選を斥け、依然都長官選をとる都制促進連盟に対して、脱退を通告していった。
この品川区会意見書にもみられる区自治権擁護の姿勢や各界の反対のなかで、内務省案もついに具体化せずに終わった。だが同時に長期間にわたって続けられてきた区側の都制要求運動も、ほぼこの時期を最後にその姿を消していった。区の自治権拡張を願って行なわれてきたこの運動は、議会に都制案が提出され、可決されない限り実現できないという条件のなかで、ついにその実を結ぶことなく終わった。逆に都制は、後述するような区の自治権の縮小、権限減少のなかで実現することとなっていく。多くの府民が望んでいた東京都制は、皮肉にも、太平洋戦争のぼっ発と府民生活の破壊のなかで、昭和十八年(一九四三)になってようやく実現することとなっていくのであった。