二・二六事件を契機として、国内のファッショ体制は強まっていった。そして日中戦争開始後の戦時体制の深化のなかで、地方行政においても、その中央集権化・官僚化は強まった。東京市の区においても、わずかな自治権もそのなかで、いっそう形骸化していった。これは区行政機構に変化をもたらしただけでなく、区議会の有名無実化となって現われていった。
元来東京市下の区会は、その議決権には制約があり、自ら立法権ももたず、対外的には意見書提出の権限があるに過ぎなかった。それにもかかわらず戦時体制の深まりのなかで、その権能はいっそう切り縮められていった。その第一の要因は、昭和十三年の東京市、同十五年の内務省による町会整備による点が大きい。後述するように、これを通して町会、とりわけ町会長が区行政に占める比重は高まり、区長―町会長のラインで行政が処理されていくこととなり、区会議員と住民、行政の関係は疎遠化せざるを得なかった。それを通して次第に区会議員の「名誉職」化が進み、区会も勢いその仕事を減らしていった。
区会の機能を無力化させた第二の要因は、財政面での区の権限縮小であった。昭和十五年(一九四〇)の地方税制の全国的改正により、区は従来の「区に属する市税」の課税権を失った。さらに翌年には、国民学校令により、それまでの学区が廃止された。これによってそれまで区が徴収してきた授業料収入もなくなり、区の最も重要な仕事であった教育事務もその必要を失った。これらによって区の歳出入規模は縮小し、仕事の減少とも相まって、実質的予算審議機能もほぼ失った。この区会の仕事の減少は、区の会議費の減少ともなっていった(第185表参照)。
項目 | 歳入 | 会議費 | 議案 | ||
---|---|---|---|---|---|
区名 | 品川 | 荏原 | 品川 | 荏原 | 荏原 |
年度 | |||||
円 | 円 | 円 | 円 | 件 | |
昭和12年度 | 1,010,911.30 | 436,888.06 | 27,179.86 | 16,408.78 | 36 |
13 | 911,388.29 | 443,070.00 | 27,278.35 | 15,299.92 | 38 |
14 | 698,074.13 | 738,342.94 | 27,719.92 | 16,367.78 | 41 |
15 | 929,118.65 | 698,627.99 | 27,854.47 | 17,832.45 | 47 |
16 | 130,529.07 | 62,664.09 | 5,888.01 | 3,628.22 | 26 |
17 | 不明 | 42,016.30 | 不明 | 3,871.05 | 10 |
(東京市各区歳入出決算両区各年版および荏原区史より作成)
このような区行政の変貌は、その行政機構の面にも現われている。昭和十三年十二月末、荏原区においては庶務課・教育課・税務課・会計課・土木課・保健課・社会課という七課編成であった。ところが昭和十五年には保健課と社会課が合併して厚生課ができ、また経済課が新設された。翌年には土木課は市に移管され、昭和十七年九月二日の東京市訓令によって、課の編成はさらに大きく変わった。すなわちその仕事が減少した教育課は庶務課に吸収され、また税務課・会計課は財務課に統合された。そして厚生課は健民課に、経済課は戦時生活課と名称を改め、新たに防衛課および親切課が置かれた。この課名からみても、戦時色の強まりが感じられるが、昭和七年の区制施行以来、一貫して存在し続けた課が、戸籍兵事課だけだったことは、区行政の特色を暗示するかのようである。しかもこれらの際の仕事の面では、町内会との連絡などに当たることになっていった。