このような区行政や区会の変質のなかで、昭和十八年(一九四三)九月、都制が施行されることになった。これには太平洋戦争開始後の戦局悪化によって、首都防衛および戦争政策を迅速に遂行する体制が必要とされたことに多くよるものであった。
ここに実現された都制は、先の内務省地方局案よりも、いっそう中央集権的性格が濃厚であった。すなわち都長の官選はもちろん、区の自治権は法制的にも縮小され、区長は官吏とされ、都制要求運動の求めたものは、すべて否定されていた。区会の議決事項もかなり減らされ、実施されなかったとはいえ、区会議員の定数も削減された。この状況について「品川荏原統合誌」の著者は次のように語っている。「区の自治は極度に圧縮された。区会の存続もやっと形ばかりで、一時は区会廃止の論さえも起こったが僅かに喰止めた。その残った区会でも、区会議長は区長兼任という原案を、都会議員の尽力で辛うじて議員の選挙にしたという。(中略)全く区会は一種の形式であり、飾物でしかなかったのである」と。