第十九回総選挙の結果と無産派の進出

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昭和十一年一月、時の岡田内閣は議会解散を行ない、二月二十日に第十九回総選挙が施行されることとなった。このさい両区の選挙区は、荏原郡以来の東京五区に属していた。両区の区民にとっては、昭和八年行なわれた東京市会選挙からも三年近くたっており、総選挙は区の誕生以来はじめてという久し振りの選挙であった。

 前回の総選挙以後四年の間に、政治状況は大きく変化していた。昭和七年(一九三二)の五・一五事件の後、ファッショ的政治体制は進行し、そのなかで軍部の抬頭は著しかった。昭和十年の「天皇機関説事件」に端を発した「国体明徴運動」にもみられるように、ファッショの嵐は吹きつのっていった。一方政党政治の時代から相次いで引き起こされた政界の腐敗や政争は、政友会・民政党といった既成政党への国民の不信感を強めていた。昭和九年、センセーショナルに伝えられた帝人事件は、いっそう国民の政治や政党への不信の念を定着させていた。このようななかで、内務官僚を中心とするいわゆる「新官僚」は、軍部との結びつきを強めつつ、既成政党排撃を画策した。昭和十年五月、選挙粛正委員会令が勅令として公布され、選挙の粛正・政界の浄化を目標に選挙粛正運動が、それ以後展開されていくことになった。

 この時期、日本経済は大恐慌以後の不況を抜けだし、軍需インフレによって景気は回復してきた。しかしインフレによる生活苦は国民の上に迫り、労働者の上にも低賃金や、それを増幅させる臨時工問題などの大きな矛盾が現われていた。一方無産運動も、満洲事変以後弾圧などを通じて左派の力は弱まり、右派を中心とする社会大衆党・全日本労働総同盟(昭和十一年一月結成)のラインによってほぼ統一されていた。無産運動が以前の乱立状態を克服したといっても、ファッショの重圧のなかでその力は振わなかった。

 このような状況のなかで、昭和十年秋、総選挙の前哨戦として、東京などの関東大震災被害県以外で府県会選挙が行なわれた。新聞は右翼勢力の進出、無産派の不振を予想していたが、結果はその予想と逆であった。府県会においてそれまで野党であった政友会が勝利を占め、無産派は進出し、右翼勢力は不振を極めた。この結果は、第十九回総選挙での各政派の消長を占うものといえた。

 第十九回総選挙の結果、それまでの議会の絶対多数党政友会は大敗し、岡田内閣の与党民政党が第一党となった。だが特筆すべきは無産派の進出であった。それまでの五議席は一挙に二二議席となり、唯一の無産派全国政党であった社会大衆党は一八人を当選させ、議会のキャスティングボートを握ることとなった。品川・荏原両区の属する東京五区は、この全国的傾向の頂点ともいえる結果を示した。東京五区の選挙結果は第186表の通りである。

第186表 東京5区における第19回総選挙の結果
品川区 荏原区 東京5区計
有権者数 40,703 34,316 369,903
棄権率 27.65% 23.70% 28.32%
各派得票 無産派 11,940 11,986 105,999 (40.3%)
民政党 9,366 9,477 88,546 (33.6%)
政友会 7,660 3,864 63,129 (24%)
その他 272 205 5,301 (2.1%)
当選者 加藤勘十(日本労働組合全国評議会) 6,763 7,521 53,748
麻生久(社会大衆党) 5,177 4,465 52,251
斯波貞吉(民政党) 2,700 1,681 35,994
牧野賤夫(政友会) 2,405 1,907 27,593
伊藤武七郎(民政党) 4,515 4,087 24,403
次点 鏑木忠正(民政党) 1,763 3,463 23,350
三上英雄(政友会) 1,690 1,264 21,935

(「第19回衆議院議員総選挙一覧」から作成)

 この選挙において「反ファッショ民衆戦線ノ強化」、「大衆負担ノ増税反対、独占資本ヘ重税」、「尨大ナル軍事予算ヘノ厳正ナル批判」、「物価ノ引下ゲ、賃銀・俸給ノ引上ゲ」等を主張した加藤勘十は、全国最高点で当選した。これに反して前回一位で当選した政友会の三上英雄は、「国体明徴ノ徹底」、「積極自主外交ノ貫徹ト大亜細亜主義ノ実現」、「南方躍進ノ国是」など侵略的・右翼的主張を掲げたが、今回は落選した(「選挙広報」「衆議院議員総選挙ニ関スル調」所収)。また社会大衆党から出馬して第二位で当選した麻生久の場合においても、昭和十一年六月の警視庁調べによれば、東京五区における社会大衆党員は荏原の一四二名、品川の六七名など総計四六〇名しかいないのに、五万余票を獲得した(「特高関係半年報」「旧陸海軍文書」所収)。これらの点からみて、東京五区における無産派の進出は、区民の反ファッショ的気運の現われであり、多くの都市型浮動票の投票による面が大きかったといえよう。このような傾向は、この時期の一連の選挙にも共通してみられた。