続いて昭和十一年十一月には、区会議員選挙も行なわれた。品川区においては、政友二五、民政一四、無産派三、中立二と議席をわけ、無産派の進出はあったとはいえ、政友会優勢の形態は変わらなかった。
しかし荏原区においては政友一五、民政一二、中立七、労農無産協議会四、社会大衆党二と、民政優位であったそれまでの勢力配置に大きな変化がみられた(『東海新聞』昭和十一年十二月十日)。それは民政の地盤が、無産派と中立の進出によって喰われたともいえるものだった。この荏原における民政の退潮は、翌年三月の東京市議選挙の結果にも現われた。四議席は、安平鹿一のトップ当選につづいて、政友・民政・中立で分けられ、民政は四人立候補して一人の当選にとどまった。いっぽう品川においては無産派は乱立がたたって当選できず、代わって市政革新同盟の石山賢吉が、政友・民政の各二人とともに当選した。この東京市議選においては、前回と異なり民政が第一党となった。だが社会大衆党は二議席から二二議席に、労農無産協議会は不振だったとはいえ四人を当選させ、市政革新同盟も九議席をえ、これらの勢力が、市会の運営に大きな力をもつに至った。
府会・区会・市会の選挙のなかで、無産派とくに社会大衆党進出の傾向は定着していった。だがそれと同時にもう一つの傾向も顕著になっていった。それは棄権率の増加であった。すなわち総選挙・府会・区会・市会の順でみていくと、品川においては二七・七%、三九・六%、四五・八%、三八・一%と推移した。また荏原においては二三・七%、四〇%、四四・七%、四〇・二%と総選挙以後、四〇%台の棄権率が定着していることは目をひく。この原因としては、ほぼ四、五ヵ月に一度の割で選挙が連続した点があったことは見逃がせない。しかしこの時期、選挙粛正運動が町会などを通じて、棄権防止を強調しつづけていた事実を考慮するならば、この棄権の増大も、都市浮動票の一つの傾向であったといえよう。それは官製選挙粛正運動への批判の面を含むものであろう。昭和十二年二月の荏原区選挙粛正実行委員会で、岩渕区議(政友)から「座談会等は開催しても選挙粛正は免疫性となり居る故集まる人が極く少数なるが故に本目的を達成すること不可能故取止めにしては如何」(「東京市選挙粛正運動経過概要」)という発言があったことからみても、区民の気分はうかがうに足る。