だがその間に、国民をとりまく政治状況は厳しさを加えていた。広田内閣の下での軍事費重視の馬場財政のなかで、悪性インフレは深刻化し、物価は異常に騰貴した。昭和十一年(一九二二)末から賃上げを求める労働争議はひん発した。いっぽう広田内閣は、軍部の横暴に対する政党の反発のなかで総辞職し、林陸軍大将が政党と無関係に組閣し、林内閣と政党の対立は強まった。そのような状況の下で、林内閣は予算通過後、親軍新党の樹立を意図して、議会を突如解散し、昭和十二年四月、第二十回総選挙が施行されることになった。
第二十回総選挙の結果は、林内閣の意図に反するものとなった。政友・民政両党は三五〇議席を確保し、また社会大衆党も三五人を当選させ、戦前の無産派進出のピークをつくった。この選挙において、林内閣打倒を党の政策として打ち出した政党は、加藤勘十を中心とする日本無産党だけであった。しかし東京五区における政友・民政両党候補は、その演説において、林内閣の政党無視を攻撃した。いっぽう社会大衆党の三輪寿壮は、政・民両党を攻撃し、社会大衆党の躍進を訴えた。
この総選挙の結果、東京五区においては社会大衆党二名、日本無産党一名が当選し、定数の過半を無産派が占めることになった。だが棄権率も、両区においては四〇%近くに及んだ。その選挙結果は第187表の通りである。
品川区 | 荏原区 | 東京五区計 | |||
---|---|---|---|---|---|
有権者数 | 40,295 | 35,120 | 387,534 | ||
棄権率 | 38.6% | 39.2% | 40.8% | ||
各派得票 | 無産派 | 9,033 | 10,105 | 94,904 | (42.5%) |
民政党 | 11,594 | 7,580 | 71,425 | (32%) | |
政友会 | 3,001 | 2,558 | 41,797 | (18.7%) | |
その他 | 922 | 892 | 14,806 | (6.8%) | |
当選者 | 麻生久(社会大衆党) | 5,073 | 4,932 | 34,143 | |
加藤勘十(日本無産党) | 3,507 | 4,731 | 32,914 | ||
斯波貞吉(民政党) | 1,399 | 1,297 | 28,599 | ||
三輪寿壮(社会大衆党) | 453 | 442 | 27,847 | ||
牧野賤男(政友会) | 2,151 | 1,811 | 25,023 | ||
次点 | 大橋清太郎(民政党) | 9,262 | 2,009 | 24,385 | |
鏑木忠正(民政党) | 933 | 4,274 | 18,441 |
(「第20回衆議院議員総選挙一覧」から作成)
無産派は議席・得票率は伸ばしたとはいえ、得票数においては前回を一万票余下まわった。これは棄権の増大によるものであるが、このような傾向はたんに都市型選挙の特徴を示すに止まらず、既成政党はもちろん無産派にも失望感を強めた人々がいたことを暗示していよう。たとえば、無効票について品川警察署長は「単ニ雑事ヲ記入セルモノノ中ニ(1)軍部亡国 (2)軍部内閣打倒ト記入セルモノ合シテ十二アリ」とその内容を伝えている(「衆議院議員総選挙ニ於ケル無効投票数及其内容ニ関スル件」「旧陸海軍文書」所収)。本来無産派に投票するであろう人々のこれらの反応は、政治・政党不信の傾向も広がってきていたことを示している。
この総選挙の結果は、林内閣を倒し、第一次近衛内閣を誕生させた。だが昭和十二年(一九三七)七月の日中戦争の開始は、二度の総選挙に現われた国民の反ファッショ的気運を押し流していった。このなかで社会大衆党は明確に戦争協力に踏み切り、日本無産党は同年十二月その結社を禁止されていった。そしてほぼ二年の間に集中的に現われた無産派躍進の傾向は消滅し、国民は戦争体制に動員されていくことになった。