日中戦争による膨大な軍事費と財政の拡大は、インフレーションをさらに進行させ、国民の肩に大きな負担を加えていた。戦争開始直後から「堅忍持久」をスローガンとして始められた国民精神総動員運動は、地域住民に対して「地方団体内に於ける相剋摩擦の一掃」、「隣保団結」、「納税・貯蓄心の涵養」などを強制していた(「第一回国民精神総動員強調週間内務省所管主要眼目」「精動中央連盟事業概要」所収)。しかし日中戦争の泥沼化のなかで、いっそう国民を戦争に駆りたてる体制の強化は、支配層にとっては大きな課題となっていた。
この課題の具体化がヨーロッパでのドイツ軍の優位という条件を利用したいわゆる新体制運動の登場であった。昭和十五年五月ころから近衛文麿を中心とする新党構想が現われてきた。この新体制運動は国民の人気を呼び、政党も争って七月から解散し、新体制が具体化する以前に、無政党時代が出現することとなった。そして十月には大政翼賛会が成立した。
この時期、品川・荏原両区民は半年の間に三度の選挙を経験した。昭和十五年六月、東京府会議員選挙が行なわれたが、これが候補者が政党を名乗る最後の選挙となった。この選挙の結果、民政党が絶対多数をとったいっぽう、前回大きく躍進した社会大衆党は、内部対立もあって僅か一名の当選に終わり、既成政党の強さを認識させた。この傾向は両区でも同様であった。品川区においては、民政党の大橋清太郎・中島勝五郎・西本啓、政友会の石原永明が当選し、社会大衆党の植田重義は一、九〇〇票強で六位に終わった。荏原区においても、政友会の鏑木小平次・斎藤卯助・民政党の平沢忠七が当選し、社会大衆党の飯田五平は三、七〇〇余票を獲得したが次点に止まった。だがこの選挙においても、棄権防止の呼びかけにもかかわらず、品川三七・二%、荏原三九・三%という高い棄権率を示していたことは注目される。
続いて十月には斯波貞吉・麻生久の死去に伴う東京第五区衆議院議員補欠選挙が行なわれ、四倍の競争率のなかで、大橋清太郎・広川弘禅が当選した。しかしこの選挙での棄権率は関心が低かったこともあって第五区全体で七三%にものぼった。さらに十一月には「旧体制選挙法によるとはいえ政党解消後の総選挙なので、政か民かあるいは社大進出かの興味はない」(『朝日新聞』十一月二十九日)といわれる区会議員選挙が行なわれた。この選挙での関心は、淀橋・中野両区の一部で行なわれた隣組推薦候補の当落と、「新体制」にのった九〇〇余名の新人候補の進出に集まった。選挙の結果品川区においては、四四名の定員中、前職は一九名、荏原区でも四〇名中前職は一五名という大幅な入れ替わりがあった。荏原区についてこの新人の進出をみると、元議員五名、前回立候補落選者五名を考慮すれば、純粋の新人は一五名程度に止まっていた。しかも棄権率は品川で四五・三%、荏原で四二・四%に達し、「新体制」の掛け声にもかかわらず、区民の関心の低さをみせた。なおこの三回の選挙にみられる高い棄権率は、町会・隣組による「狩り出し」がまだ徹底していなかったことをも示していよう。
いっぽう第二十回総選挙で選出された衆議院議員の任期は昭和十六年四月で切れることになっていた。しかし政府は同年二月、その任期を法律で一年延期した。
その年十二月八日の真珠湾の奇襲に始まり、日本は太平洋戦争に突入していった。その緒戦の勝利のなかで、東条内閣は、総選挙を断行して、国民の戦争協力気運を盛り上げるとともに、政府にとって好ましくない議員を排除して、議会の「御用化」を完成しようとした。この政府の意図の下に内務省は、昭和十七年二月「衆議院議員調査表」を秘かにつくり、現代議士を、時局即応度・反政府度などで、甲乙丙の三段階に分類した。このなかで東京五区では、加藤勘十・三輪寿荘の旧無産派議員が丙、すなわち「時局認識薄ク徒ラニ旧態ヲ墨守シ常ニ反国策的・反政府的言動ヲナスハ思想的ニ代議士トシテ不適当ナル人物ト認メラルル者」とランクされたのはもちろんであった。それだけでなく、翼賛議員同盟に属していた旧政党出身の牧野・大橋・広川の三代議士も丙とみなされていた(「衆議院議員総選挙(準備期間)書類綴」「旧陸海軍文書所収」)。そして二月二十三日には、政府の主導の下に候補者を推薦するために翼賛政治体制協議会が結成され、候補者の銓衡に当たった。しかし旧政党人によるまき返しのなかで、内務省などの意図は十分には通らず、第五区においては次の五人が推薦候補者とされた。
大橋清太郎 現 旧民政党
牧野賤男 現 旧政友会
四王天延孝 新 陸軍中将
津久井龍雄 新 評論家
三上英雄 元 旧政友会
四月三十日の総選挙をめざして、第五区においては定員五人に対して、二三人が立候補した。この選挙の結果、四六六議席中、推薦候補は三八一人が当選した。第五区においても、推薦候補は三人の当選をみた。当落および上位一五人の得票は第188表の通りである。
品川区 | 荏原区 | 東京5区計 | |
---|---|---|---|
有権者数 | 44,795 | 38,440 | 458,854 |
棄権率 | 16.2% | 13.8% | 16% |
四王天延孝(推新) | 4,615 | 5,245 | 76,250 |
大橋清太郎(推現) | 13,563 | 3,714 | 43,188 |
本領信治郎(東方会新) | 2,353 | 1,755 | 29,478 |
牧野賤男(推現) | 1,409 | 2,191 | 26,077 |
花村四郎(旧政友新) | 296 | 531 | 21,700 |
亀井貫一郎(旧社大現) | 1,539 | 1,911 | ※20,120 |
三上英雄(推元) | 726 | 808 | 18,996 |
児玉誉士夫(国粋会新) | 1,804 | 1,928 | 18,990 |
津久井龍雄(推新) | 1,081 | 1,102 | 18,338 |
東舜英(旧民政新) | 618 | 642 | 15,788 |
鏑木忠正(旧民政新) | 374 | 8,162 | 14,862 |
広川弘褝(旧政友現) | 469 | 687 | 14,747 |
中島勝五郎(旧民政新) | 5,160 | 1,454 | 14,388 |
平林浅次郎(旧政友新) | 748 | 181 | 12,579 |
松岡駒吉(旧社大新) | 869 | 906 | 9,420 |
※なお現職の亀井候補は,前回総選挙では福岡二区選出であった。
(「第21回衆議院議員総選挙一覧」などから作成)
この選挙結果にみられる特徴の一つは、演説会が、内務省の「選挙演説会ニ於ケル言論取締標準」などによって規制され、不活発であったのに比し、棄権率は極めて低かったことである。これには隣組などによる「狩り出し」の効果が想像される。また推薦候補の四王天延孝が各区からまんべんなく票を集め、全国最高点で当選し、さらに非推薦であるが東方会の本領信治郎が、旧社会大衆党の一部の支持を得て、各区で得票を重ね当選したことである。これは前回の無産派支持に代わる都市浮動票の行方を示している。そして品川区においては旧民政の二人の府議、大橋清太郎と中島勝五郎が大量得票をあげ、また荏原では旧民政で立候補を重ねた区警防団長鏑木忠正が最高票を得ていることである。ここにも旧政党の地元の地盤の堅さがうかがわれる。
この翼賛総選挙に続いて、戦時下を理由に一年延期されていた市会議員選挙が六月に行なわれた。これに際しても候補者推薦制度がとられ、五月にはその推薦母体として、東京市翼賛市政確立協議会が組織された。そして一八〇名の定員に対して、一七四名の候補者が推薦され、品川区では西本啓・石山賢吉の現職の他、関山延・風間実・金子梅吉・池田操の六人が定員いっぱい推薦候補となった。また荏原区においても現職の鏑木小平次・石井良太郎に加えて、鏑木政五郎・斎藤卯助の四人が推薦された。これらの推薦候補に対して、品川では六人、荏原でも二人の自由立候補者が立ち、議席を争うこととなった。しかし選挙運動に対する厳しい制限と、推薦候補者の優勢によって、立候補辞退者は前回の二〇名を大きく超えて三八名に達し、品川においても現職候補一人が辞退した。
選挙の結果、新人の進出はめざましく、また推薦候補は一八〇議席中一三〇人が当選した。品川区においては、推薦の新人一人が落選し、非推薦の現職石原永明が当選したが、荏原では推薦候補が全員当選し、推薦の強さを示した。そして棄権率も品川一八・二%、荏原も一七・五%と低く、町会・隣組による投票者の動員があったことをうかがわせる。
一方そのようななかで太平洋戦争の戦況は次第に悪化し、決戦体制が鼓吹された。そして昭和十八年(一九四三)七月東京に都制が施行され、東京市会・府会は自然消滅となり、同年九月、はじめての東京都会議員選挙が行なわれることになった。しかし都議の定数は一〇〇名とされ、戦局の悪化のなかで生産力増強を妨げないために、選挙運動はそれまでにもないほど厳しく制限されたものになった。いっぽう市議選にまで広げられていた候補者推薦制度は、選挙干渉だという批判の前に後退した。そして選挙には定員一〇〇人に対し、三〇三名が立候補する乱戦となり、品川では三議席に七人、荏原では二議席に対して六人が立候補した。だが選挙運動の制約のなかで、地盤をもつ前議員が強味を発揮し、新人の進出は不振を極めた。品川区では前回の府議当選者、中島勝五郎・西本啓・石原永明の三人が当選し、荏原においては、現職市議の斎藤卯助・石井良太郎が当選し、定数削減の影響をうけ、昭和七年以来市議の職にあった鏑木小平次は落選した。そして棄権率は、品川で二八・九%、荏原で二一・九%と、翼賛選挙での棄権率を上まわった。これは区民が生産増強や生活難におわれて、隣組による規制も弱まっていたことを示しているであろう。そしてこの都議会議員選挙が区民にとって、戦前最後の選挙となったのである。