町会の起源には、非常に古くまでさかのぼれるものもある。しかし単なる神社を中心とした氏子の団体としてではない、近代的な町会の発生は、日清戦争の頃からと考えられる。品川区の区域においては、日清・日露両戦争の際に出征兵士を歓送迎するために生まれた町会も、二、三にとどまらない。だが町会が次々と生まれてきたのは、品川町においては、大正九年、品川警察署長の主導の下に、安全組合なるものがつくられてからであった。その規約の条文に、次のようなものがあったことは注目される。
一、本組合は犯罪又は変災に因り、其他風俗・衛生・交通上受くる危害に対し、日常隣保相互に注意警戒を加へ、未然に之を防御し、常に組合内の安全を期するを本旨とす。
二・本組合と警察とは常に協力一致、相互に後援扶助し、以て組合の安全を図るものとす(以下略『品川町史』による)。
このような方向に基づいて、大正十二年(一九三七)の関東大震災の際の自警団から町会になったものも、東京の旧市域ほどではないが、いくつかみられた。そして大正十二年から昭和七年の市郡併合の間に、四二もの町会が次々につくられていった。だがそのうち規約をもつに至った町会数は、なお七割にみたなかった。
これに対して荏原区の区域においては、町会の発達は、品川区よりも大分遅れ、関東大震災以前にできたものは七町会にすぎず、市郡併合以前をとってみても二六町会ができたに止まった。『荏原区史』が、「区内に於ける多くの町会が発展して来たのは、大正十二年以後に属しているものと見て差支えない」と述べているように、町会の設立は、関東大震災以後の人口の急激な増加にまつことが大きかった。
昭和七年(一九三二)の品川・荏原両区の誕生とともに、区役所・警察署などは積極的に町会づくりを勧めた。たとえば昭和九年五月のことになるが、荏原区内のある町会の「設立趣意書」は、次のように述べている。
区役所・警察署・消防署其他より各自へ伝達事項が非常に不便となりました為め、是非町会を設置して従前通りの事務を致す様との官公署よりの再々の依頼にて、又居住者有志の御希望も有り、相互の為めに元十六区役員が発起となりまして町会を設立致したいと存じます。
ちなみにこの地域では、旧町村制時代の区を単位とする町会があったが、市郡併合のさい、町会を解散していたのである。この例にもみられるように、区の成立以後、町会を行政の補助手段としていく傾向は、満洲事変下の情況とも相まって強まっていった。品川区においても、町会の設立動機は町内の親睦のため五〇件についで、官公署の慫慂によるものが、一九件にのぼっており、この傾向をうかがうことができる。このようななかで、町会の設立は進み、それととも規約をもつものが激増し、その体制は整っていった。昭和十年六月の時点では、両区には町会のない町はなくなり、品川は一〇三町会と二つの部分的町会連合会を、荏原は七二町会と一つの部分的町会連合会をもつに至った。