昭和十年五月から開始された選挙粛正運動は、町会のその後の方向に大きな影響を与えた。内務省を中心としたこの運動は、政界浄化のためには、まず金のかからない選挙をやることだとして、国民にとって選挙は「大政翼賛の神聖なる責務」であるという思想の注入に力を注いだ。昭和十年秋、東京などを除いて全国的に行なわれた府県会選挙の際の選挙粛正運動において、町内・部落での神前宣誓なども行なわれ、その結果町内また部落での懇談会開催が有効な方法として認められた。東京においては、昭和十一年二月の総選挙から、昭和十二年四月の総選挙にかけて、選挙粛正運動は、府・市・区・警察などを中心に展開された。両区にも諸団体の幹部・官吏、区内の有力者などから成る、それぞれ三〇人の選挙粛正実行委員会がおかれた。そしてその最初から、町会の役割は重視され、町会役員の会合や、町会を単位とする座談会・懇談会が開かれていった。しかし第一次選挙粛正運動のさい開催された町会の座談会・懇談会は、品川で六回、参加者約四五〇人、荏原で八回、約三五〇人に止まった。昭和十一年六月の府会議員選挙ののち、選挙粛正運動は、同年十一月の区会議員選挙を目標に行なわれることになった。この第三次選挙粛正運動に対して、東京府選挙粛正委員会は、粛正運動の恒久化の方策として、町内会の設置を押し進めることをあげ、さらに運動の単位を「町内会又は更に小区域の集団」とすることを答申した(「東京市選挙粛正運動経過概要」昭和十二年二月)。同時に「市区町村選挙粛正実行委員会と密接なる連絡協調を保ち、粛正運動を支援し、其の全面的強化を図る」ことを目標とする、選挙粛正員が各区におかれることになった。これをうけて、品川区では三八五人、荏原区では四〇二人の選挙粛正員が選ばれた。しかし品川においては、その実に三分の一の一三四人は町会役員が占め、荏原においても町会役員は六二人の多数にのぼっていた。
だがそのような努力にもかかわらず、東京での選挙粛正運動も、それへの町会の協力も不振であった。市会議員選挙を前にして行なわれた選挙粛正員へのアンケートは、これを暗示している。このなかで従来の粛正運動で最も有効な方法はという質問に対しては、町会座談会をあげる回答は二二一人に達し、第一位であった。それにもかかわらず市会選挙で有効だと考える方法はという問に対しては、町会座談会をあげるものは、六八人にすぎなかった。ここにも官製的な粛正運動と、町会座談会に対する人々の嫌悪感がうかがわれる。そして市会選挙に際しての町会での懇談会参加者は、品川区で一〇〇人、荏原区では実に一八人というみじめな結果に終わり、東京全体の参加者も一万人強であった。この選挙粛正運動のさい、町会の動きがにぶかったことは、町会が官公署から行政の補助手段とみなされつつも、そうなりきっていなかったことを示している。このような町会の状態は、日中戦争開始後、行政当局や内務省・警察にとって問題とされていった。次に述べる町会整備事業は、町会を行政の下部機構として組織しようとする、内務省を中心とする意図の現われであった。