昭和十二年(一九三七)七月の日中戦争の開始と、それに伴って進められた国民精神総動員運動は、町会のその後の方向を規定していった。内務省が第一回国民精神総動員強調週間に際して明らかにした地方支配構想は、次の通りであった。
真に挙国一致を必要とする今次の事変を契機とし、此際地方団体内に於ける相剋摩擦を一掃し、種々の対立抗争を解消せしめ、地方民をして小我を捨てて大我に就くの精神の下に役場町村長を中心として隣保団結の実を挙げしむること(「内務省所管主要眼目」傍点引用者「国民精神総動員中央連盟事業概要」所収)
ここには区長を中心とした町会・隣組による「相互監視」的構想がうかがわれる。
しかし町会の現状は、内務省の意図の実現をはばんでいた。その原因の一つは、町会が地域住民の自主性にある程度基づいて設立され、その創立動機もまちまちであったことである。つまり一つ一つの町会がそれぞれの特徴をもち、一律に規定しにくい面をなおもっているといえた。第二の点は、町会の会員数が五〇名以下から二、〇〇〇名以上に及ぶ差があり、その区域も区の行政区画―町・丁目―とは無縁であったことであろう。この点を品川・荏原両区についてみれば、第189表の通りである。
品川 | 荏原 | ||
---|---|---|---|
構成区域① | 一町(又は一丁目)を単位とする町会数 | 7町会 | 0 |
二町(又は二丁目)を単位とする町会数 | 1 | 0 | |
一町(又は一丁目)の区域の一部を単位とする町会数 | 49(うち散在1) | 74 | |
他の町(又は丁)の一部をも包括する町会数 | 44 | 0 | |
計 | 101 | 74 | |
会員数② | 1名~50名の会員をもつもの | 4 | 0 |
51~100名 〃 | 13 | 11 | |
101~300名 | 41 | 19 | |
301~500名 | 18 | 15 | |
501~1000名 | 19 | 15 | |
1001~2000名 | 4 | 2 | |
2001~5000名 | 1 | 0 | |
計 | 100 | 72 |
① 昭和11年9月調査 ② 昭和10年9月調査
(計のちがいは,調査年月のちがいによるもの)
「東京市町会要覧」,「町会ニ関スル調査」から作成。
このような町会の現状では、官公署が町会を行政の補助手段としようとしても、散在している町会があったり、また一、〇〇〇名以上の会員をもつ町会もあるのでは、命令などを伝達することさえ不可能にちかかった。
第三に問題となったのは、さきの内務省の見解がいう「地方団体内に於ける相剋摩擦」であった。品川・荏原両区内においても帝国在郷軍人会分団や青年団、防空訓練などの中心となる防護団など、各種の半官半民的団体が存在していた。町会とこれらの諸団体との関係は必ずしうまくいっていなかったふしがある。時期的に少し後になるが、東京市はその「町会整備提要」のなかで、町会と「各公益団体等との区域の交錯、活動の競合を避」けることを強調している(「東京市町会整備提要」昭和十三年七月)。品川・荏原両区においてこのような事実があったかどうかは明らかではないが、品川については、青年団分団にも、防護団にも、在郷軍人会にも、町会から補助金をだしている。そして、青年団・在郷軍人会と町会とはその区域・役員・組織・事業などで異なっていたが、防護団と町会とは全くそれらが一致していた。いっぽう荏原においては、青年団とは火災予防の宣伝などでは一緒にやっており、防護団分団の役員は町会役員から選出されていた(「町会ニ関スル調査」昭和十三年)。これらの諸団体と町会との間に「縄張り争い」的な対立がなかったとしても、その区域などが異なっていたら、戦時体制に即応した地域状態の確立はむずかしかったであろう。
これらの町会の「問題点」に対して、昭和十三年四月、東京市は町会の整備にのりだした。もちろんこれ以前においても、区の手によって町会整備は行なわれていた。だがそれは主として、区役所に対応した町会の区段階の連合会をつくっていく方向であった。しかし東京市による町会整備は、一つ一つの町会を行政機構に結びつけようとするものといえた。東京市はこの事業の趣旨を次のように述べている。
町会は市民任意の隣保団体として生成せる関係上、形態頗る多岐多様にして内容亦極めて区々たり。為に其の活動能率に於てまだ遺憾の点なしとせず(中略)惟ふに町会は町内に於ける交隣相扶・共同利益管理の為、市民生活上欠くべからさる機関たると共に、行政運営上重要なる補助機関たり(「東京市町会整備提要」)
そしてこの認識に基づいて、「市民の利便と事務の簡捷の為、市・区役所の取扱う事務にして適当なるものの取次を町会に委任す」という、町会を行政の下部機構化する方向を打ち出した。そして四月十七日だされた「東京市町会基準」のなかで、町会整備の方向を明らかにした。その主要点は次の三点である。一つは町会の名称に必ず地名と、町会であること明示する字句を使用させることである。第二には、町会の区域を町(丁目)単位に定め、三つ目には、「町会は隣保団結を強固にし交隣協力の実を挙ぐる為、連軒数戸を単位として細分組織を設くるものとす」という隣組結成の方向であった。さらにこれに加えて、五月には「東京市町会規約準則」を明らかにし、これに基づいて各町会規約をつくることを指示した。このような市の町会整備事業は、町会の官製化を図るものであった。
だが東京市によるこの戦時体制に即応するような町会整備に対しては反撥も強かった。地域の有力者にとっても、このような町会の整理統合は、自からの地盤との関係からいっても、おいそれとは賛成できなかった。荏原区は東京三五区のうちでも、もっともこの事業に反対の強かった区であった。目黒・荏原・大森の三区にわたる洗足自治会の会長は、町会整備へ強く反対する意見を述べている。その主要点を列記すれば次の通りである。
一 町会は市区其他の市民に対する命令伝達機関たるに過ぎず。市の施設に就ては進んで町会の希望の存する所を具体的に進達せしむることを要す。
二 法規に依り町会を制度化するは妥当なりと信ず。但し其の法規たるや、大体の規準を定むるに止め、伸縮の実際は之を自治の中に認むるを可とす。
三 従来実施しつつある事業、街路照明・下水消毒・便所塵埃函消毒・夜警・各種小額寄附金の代納等、将来は街路照明・下水消毒・夜警等は町会を煩はさずして市区又は警視庁に於て施行せらるるに至ることを希望す。
四 町会は区の単位たるべきものなるも、区の行政的単位として区の出張所の如き事務に没頭せしむることは、町会本来の使命に反する如く考える。(市政革新同盟「東京市の町会」昭和十三年十月所収、傍点引用者)
このような公然たる、あるいは暗黙の反対のなかで、町会整備の進行は市や区にとっておもわしくなかった。昭和十五年一月の段階においても、品川では整備完了町会六九に対して、未完了一八を残していた。この遅れは町会役員の無理解であったという。だが荏原においては、未完了七四と全く町会整備が進んでいなかった。そしてこの対策として町名を整理することと併行して町会整備を予定していたことが知られる(「町会関係資料」昭和十五年十一月)。ところが昭和十六年一月の段階においても、品川が未完了町会一五と若干進捗したが、荏原は未整備のまま止まっていた(「東京市町会事情調査」(秘)昭和十六年一月)。荏原において「町会整備実行計画」が決定されたのは昭和十五年十二月であった。これに対しても「上神明の方面では、此の町会整備反対の区民大会を開くと言ふやうな気勢も見え」る状況であったという(「荏原区史」)。しかし昭和十六年四月一日から生活必需品配給事務が、町会に委嘱されるという、統制時代のなかで、四月に新町会が結成されることとなった。町会整備の開始以来、実に三年目であった。