町会の戦時体制化と内務省の町会整備

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だがそのような東京市による町会整備の遅れにもかかわらず、町会の戦時体制化は押し進められていた。隣組の結成は、そのよい例である。昭和十四年初頭の段階で、品川区においては三、一五六の、荏原においても二、二三三の隣組がつくられ、さらに昭和十五年五月には、品川四、二二三、荏原三、三〇〇の隣組へと発展していた。なお隣組の懇談や実行内容を決定する隣組常会の開催見込は、品川で七〇%、荏原で四〇%と徹底していなかったとはいえ、町会整備の完了をまたずに、住民の「相互監視」の体制はできあがっていった。

 それと同時に、町会が行政の下部機構化する傾向も顕著になっていった。最もよく事務の整理されている中程度の町会において、昭和十一年度と十四年度の事務量を対照すれば第190表の通りである。

第190表 町会事務量の推移
昭和11年度 昭和14年度
区役所からの委託事務 85.0 224.0
警察署    〃   7.0 14.0
防護団    〃   1.0 1.6
会合 4.3 25.2
送迎 13.5
その他 2.7 4.3
100.0 282.6
区役所からの委託事務のうち 昭和11年度 昭和14年度
兵事,警防,精動経済 100 988.89
衛生,教育,交通,選挙,税その他 100 87.61

「時局と町会の活動」平林広人
『都市問題』31巻2号所収による。

 この表からもうかがわれるように、町会整備事業のなかで、町会への委託事務量は激増した。この傾向は、品川・荏原両区においても変わりなかっであろう。そして重要なことは、委託事務のうち、兵事・警防などという戦時体制とかかわりの深いものは、十倍近くにふえているのに対し、逆に住民に関係の深い衛生・教育などの面では、減少していることであった。この点にも戦時体制の深まりのなかで、住民と密着していた町会本来の事務が、抑圧されていった傾向をみることができる。このようななかで、東京市町会整備の担当者が、昭和十四年四月の時点で「防火群と町会幹部との摩擦の如きは全く解消致しましたばかりでなく、貯金組合の結成でありますとか、廃品の蒐集でありますとか、国策に順応した町会の働きに於きましては誠に目覚ましい」と述べる状況が現れていった(「市政週報」「特輯町会号」号外昭和十四年五月)。

 だがこのような町会整備が行なわれていったのは、大阪・東京などの大都市においてであった。内務省は自からの地方掌握のために、全国的な町会・部落会の整備に乗りだした。これは昭和十五年九月、内務省訓令として出された「部落会町内会等整備要領」であった。それ以前から内務省は「家庭防空隣保組織に関する件」(昭和十四年八月)、「市町村ニ於ケル部落会又ハ町内会等実践網ノ整備充実ニ関スル件」(同年九月)と次々に通牒を発していた。それが昭和十五年の時点で、全国的な町会整備を指令した裏には、この年開始された新体制運動、大政翼賛会結成への動きがからんでいた。内務省は、新体制運動の推進勢力のなかにあった「国民再組織」論、すなわち戦時体制に国民を動員していくため、国民の「自主」的運動を起こそうとする構想を、自からの縄張りを侵すものとして、反撥していたのである。そのような官僚のセクショナリズムもからんで、出されたものが、この内務省訓令であった。そしてこの訓令は、主に地方を問題としていたこともあって、東京の町会整備事業にそれほど大きな影響は与えなかった。とはいえ内務省が直接動き出したことによって、町会整備の遅れていた地域に対して、整備事業を促進させた効果は否定できない。

 いっぽう日中戦争の泥沼化、昭和十六年(一九四一)十二月の対米開戦は、国民の生活を苦しくしていった。そして生活物資の不足は、その配給を握る町会・隣組へ、人々を否応なしに組織し、そのようななかで、町会常会・隣組常会の開催もある程度軌道にのっていった。昭和十七年一月の調査によれば、品川の八五町会のうち、常会開催日が定例化されている町会は六二にのぼり、荏原においても五八町会のうち三六町会はそうなっていった。そして町会整備事業開始の一つの理由でもあった、町会と在郷軍人会・防護団(昭和十四年警防団に改組)との関係もはっきりしていった。すなわち品川区においては在郷軍人会関係者が、五町会の町会長となり、町会役員には三六〇人も進出し、警防団関係者も五〇〇人以上が町会役員をかねていた。荏原区においてもこの状況は変わりなく、在郷軍人関係者二四〇人、警防団関係者三七〇人以上が町会役員を行なうという状況が現出した(「東京市町会現状調査蒐録」昭和十七年十二月)。

 かくして町会は、戦争状況の深まりにつれて、完全に行政の下部機構・下請け機関化され、戦争遂行の基礎単位として、その自主的側面を失っていった。それは区行政自体が、すべての自治的側面を失い、「上意下達」体制が区民を支配していくことでもあった。