昭和十二年(一九三七)九月、近衛内閣によってはじめられた国民精神総動員運動は、区民生活にいろいろの波紋をよびはしたが、まだうわべだけでしかなかった。消費節約・物資活用・資源愛護・貯蓄増強などのスローガンのもとに行使されたさまざまの組織の圧力は、いわば形式的な精神運動にとどまって、区民生活を深くゆりうごかすことは少なかった。
しかし、芦溝橋事件に始まる日中間の戦争の拡大と長期化は、区民の日常生活にもしだいに影響を及ぼし始めた。
日中戦争の全面的拡大は軍事費を増大させ、予算の膨張、物価上昇、貿易の混乱という事態をまねいた。その防止策として昭和十二年九月、戦時統制三法といわれる「輸出入品等臨時措置法」「臨時資金調整法」「軍需工業動員法」が公布された。さらに翌十三年四月には、国家統制の根本法規となった「国家総動員法」が公布された。
区民は戦争に勝つことを第一目標に「欲しがりません勝つまでは」と日常生活の不自由を堪え忍ばねばならなかった。政府は日中戦争開始後、国民精神総動員運動を庶民に押しつけた。
当初はかけ声だけの形式的な精神運動にすぎなかったが、昭和十四年六月、国民精神総動員委員会が生活刷新案(遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の贈答廃止、学生の長髪禁止、パーマネントの禁止等々)を決定し、その信奉者の大日本国防婦人会や警防団・在郷軍人会の幹部が「華美な服装はつつしみませう」「指輪はこの際全廃しませう」などと書いた自粛カードを街頭で手渡したりしたのもこのころからであった。
戦争の全面化は国民生活に数々の制限・禁止事項をもたらし、庶民のなかにやりきれないわだかまりを生みだした。戦争の長期化とともに区民の日常生活からは赤いもの、明るいものはまったく姿を消し、男子はカーキ色の国民服、女子は黒いモンペ姿という非常時体制下のいでたちが日常化していった。