食糧難

728 ~ 729

配給制の下で区民にとって最も苦痛であったのは、次第に低下していく米の配給量とその確保であった。

 当初、米の配給は成人一人一日二合三勺であったが、戦争末期の昭年二十年(一九四五)七月からは、一日二合一勺となり、生存ぎりぎりにまでひっ迫した。しかもそれさえ停滞しがちであった。労務加配米のある工場の食堂で食事をとれる者や、弁当を持参できる者以外の大半の人たちは、昼めしに苦労しはじめ、正午を待ちかねてなんとか腹の足しになる昼飯にありつこうと街に出たが、どこもすぐ売り切れで、食べそこなうことが多かった。ありついても中身はしれたものであった。また欠食で休学する学童も多くなっていった。

 一日の米の配給は二合余りで、二食分にしかならず、外で食べることはそれだけ米のくいのばしになった。こうした一般大衆への食糧対策として、昭和十九年四月から雑炊食堂が開かれた。品川区・荏原区はじめ都内で三三五軒の食堂ができて、一日六〇万人分を販売し、勤め人の昼食がわり、一般家庭の補食に利用された。どんぶり一ぱいの雑炊はしばし空腹を忘れさせ、苦しい食生活の息抜きになった。