主食以上に季節によって増減する魚や野菜をはじめとする副食の配給量は減少する一方であった。野菜・魚の品不足はヤミ値を高めた。
昭和十六年八月八日「青果物配給統制規則」、同二十日「藷類配給統制規則」が公布され、野菜の配給・価格統制がおこなわれた。生産者は製品の質よりも量をふやすことを目指すようになった。
昭和十七年東京では魚不足がいちじるしく、配給は計画通りには進行しなくなった。このため魚屋の店先には長い行列ができたが、先頭の者にしか渡らないという状態が六月まで続いた。六月には供給量がやや増加(一日一人あたり五、六匁~一五、六匁)したが、依然として鮮度の低い粗悪品との抱き合わせ販売が公然と行なわれていた。野菜も同様に欠乏状態が慢性化し、これに乗じた量目不足、ヤミ価格での情実売りが一般的となった。
昭和十八年になると、配給店を通じて輪番制で家庭に配給されるようになった。しかし魚の配給は一日一人あたり平均わずか六~九匁程度にすぎず、たまにある配給も「さめ」だけという状態であった。六月から隣組単位の登録が実施されたが、七・八月と魚の配給は依然として少なく、一週間から一〇日に一回、それも「にしん」「塩ざけ」「ます」などの配給が行なわれる程度であった。
昭和十九年から副食物の配給は、食品総合配給制となり、二十年十二月まで継続された。十九年一月現在の配給栄養量は、熱量一、四〇〇カロリー、蛋白質四〇グラムと生存線をはるかに下まわっていた。しかしこれは机上の計画でのことであり、実際の栄養摂取量はもっと低下していた。中央物価協力会議の調査では、一消費者単位あたりの配給量は、一日平均二五匁、買出しその他を含めた全体の入手量は約五〇匁で、配給量は全体の五〇%にすぎなかった。こうした状態のなかで「決戦非常措置要綱」の一つとして、全国的に空地の家庭菜園化運動が展開され、野菜の自給自足が目指された。
野菜の配給は十九年五月の一人一日あたり一五匁から七月には一九匁となった。しかし三人家族でキュウリ一五匁、カボチャ五〇匁の配給で、二日間まかなわなければならなかったし、配給日はきわめて不規則であった。魚の配給も七月に一人一日平均五匁で、秋になっても配給不足と欠配は続き、その種類も「さめ」「かれい」「たら」「塩ます」などがわずかに配給されるだけ、区民の「台所ききん」はますます深刻になった。
昭和二十年になると、一月の野菜配給量は一人一日あたり八~一七匁、二~三月にはさらに七匁に減少した。魚の配給は前年まではまがりなりにも四日に一回であったものが、二十年一月からは六日に一回となり、三月にはその配給量は二〇匁となった。