衣・食・住のすべてにわたる日常生活の窮迫は、その根本につながる戦争に対する批判の芽を生み出さずにはおかなかった。
戦争に対する批判を一言でももらしたら憲兵にひっぱられる弾圧の下でも、戦局の悪化とともに、絶対タブーとされれていた軍部や天皇に対する批判が除々にふえていった。たとえば不敬不穏言動として官憲が記録したなかに「天皇陛下も人間なら吾々も人間だ。天皇陛下が米を喰べられるのに、吾々国民が喰べられない筈はない。天皇陛下が米を喰べられないのなら、自分も食はずに辛抱する。吾々は銃後の産業戦士だ。斯の様な事では銃後の守りもくそもあるか」(「社会運動の状況」より)というような民衆の権力批判が含まれていた。
またこのような明確な形で批判を表明しえないまでも、たとえば教育勅語をもじった「朕思わず屁をたれた、なんぞ臣民臭さかろう(以下略)」等の消極的反抗をあらわす言葉を、日常会話のなかにまでさしはさむようになった。
戦局の変化にともない窮迫する日常生活のなかでは、目のさめている間は食物のことばかりを考える毎日だった。言論・情報統制によって戦争の勝敗を知らされず、大本営発表の「赫々たる戦果」に目を奪われていた区民にとっても、満洲事変以来の戦争の道は、いつまで続くかわからない不安の日々だった。