太平洋戦争の戦線が北はアリューシャン列島から、南はインドネシアの広大な範囲にわたって伸び、アメリカ合衆国の反撃がようやく本格的になってくると、戦局は日本軍にとってしだいに不利な局面へと転換しはじめた。銃後における軍需生産は昭和十七年あたりが全体としては頂点をなし、それ以降は、原料・燃料資源の確保がむずかしくなってきた。とくに、伸び切った戦線を支えるための兵員や弾薬・資材の海上輸送のための船舶需要と、南方からの原燃料資源の輸送のための船腹の不足は深刻となった。船腹をふやすには造船・鉄鋼産業の生産をあげねばならないのだが、鉄鋼の原料が間に合わないという悪循環に直面していた。しかも、制空権・制海権を日本側が失うにつれて、輸送船の航空機や潜水艦による被害が日ましに大きくなり、この矛盾はいっそう深刻化していった。
しかも、働き盛りの青・壮年男子が大量に軍に徴兵されていたため、後方における、とくに産業における労働力不足が大きな隘路となってきた。
これに対する方策としてとられたのが、徴用であり、勤労動員などの一連の強制的な労働力配置政策であった。
昭和十八年一月の閣議で決定された「生産増強勤労緊急対策要綱」では、労働が全国民の国家的急務であるとして「国民皆働体制の整備強化」と「皇国勤労観の確立」をうたい、それに関連した労務関係勅令の改正によって労働統制を強化する施策であった。こうして、国民徴用の徹底化と、女子および学徒の動員もいよいよ本格的に進行しはじめた。
昭和十六年八月、陸海軍の管理工場に徴用令が施行されて以来、第一次徴用をうけた者は昭和十八年八月で徴用期間が満了することになっていたが、満期者の徴用解除を行なうことは、非常時下の生産増強に障害があるとして、さらに一年ないし二年間の期間が延長された。
また、軍需会社法の制定にともなって、昭和十八年十二月に軍需会社徴用規則が実施され、指定された軍需会社の責任者はなんらの手続を要せず、徴用期間の定めなしに必ず徴用できるという厚生省令が公布された。
国民登録制度については、昭和十八年十二月から男子の適用範囲を五年引上げて満四十五歳未満まで拡張し、さらに同十九年二月からは、技能者登録と青壮年国民登録に分かれていた登録制度を一元化して、整備拡充した。また別に、科学技術者登録が創設された。
昭和十八年七月、労務調整法の改正によって政府は男子就業の制限および禁止ができることとなり、九月に第一次発動があった。これによって簡単な事務的職業、商業的職種などは女子および四十歳以上の男子をもって代替し、十四歳以上四十歳未満の男子は、時局産業方面に強制的転換することとなった。
昭和十八年八月改正国民徴用令が実施された。事務補助者・現金出納係・小使給仕受付係・物品販売業の店員売子・行商呼売・外交員注文取・集金人・電話交換手・出改札係・車掌踏切り手・昇降機運転係・番頭客引・給仕人・理髪師髪結美容師・携帯品預り係・案内係・下足番など「不急不要」と判定された多くの職業には男子の就労が禁止された。それまで、これらの職業で永年働いていた人々は、勤労動員署のいわれるままに、多くは工場の職工として徴用された。荏原区民の金子一郎は無職ということで、早速徴用をうけた。かれは堀田製作所という工場で工員として機械加工、プレスの仕事を手伝うようになった。「家の近くだったことが何より助かったが、国民服にゲートルを巻き、戦闘帽をかぶって、今まで、町会議員になったこともあるし、町会の前十六区の区長をしたこともあったが、まるで畑違いの労働なので、苦労しました。次に日本化成から三菱化成に配置換えになり、半年くらい倉庫係をして、後に寮の仕事をするようになりました」(「金子一郎」氏談)。
多くの徴用工は、腹のなかでは、たとえば「お国のためとはいえ、永年やってきた職人として、指先をけがでもすれば、一生台無しになってしまうから、少しは加減してやらざるをえなかった」し、「万一オシャカができると、それをみつかるとひどい目にあうから、こっそり、かくして持ち出し、川の中へほうりこむ」などということも、しばしばあった。
当時、勤労動員署の職員だったある人は「戦時中は、どうも、お国のためとはいいながら、ずいぶん無理なことをやりました。警察署よりこわい役所だったかもしれません。悪いことをしていなくても、ただぶらぶらしているだけでも、われわれを引張るのですから。各工場に炭坑送りの人員を割りふることもやりましたね」と語っている。
それは同時に、女子の勤労動員の強化につながった。昭和十八年九月、厚生省は「国内態勢強化」の一環として、新たに女子勤労挺身隊を編成し、軍需工場などに出動させる制度をつくった。これは従来の勤労報国隊と異なり、一年ないし二年の長期にわたり軍工廠・航空機関係工場・政府作業庁・官庁などに出動していった。品川区・荏原区でも、未婚の女子が、挺身隊として働いた。むろん、特別のコネをつかえる家庭の子女は、なるべく楽なところへ就職して、強制労働を逃れることができたが、これはごく限られた少数の人たちだけだった。
杉野女学院(ドレスメーカー女学院)を昭和十八年三月一日に改称、現在名は杉野学園ドレスメーカー女学院、当時所在地品川区上大崎四の二二九(現品川区上大崎四―六―一九)では、昭和十六年十月十五日に学院報国隊組織が結成され、二四学級一、二〇〇名の学生が、東部一七部隊・陸軍被服本廠・品川専売局・藤倉ゴムなどに勤労動員ででかけ、おもに被服関係の職種に従事した。
さらに、一九四三年五月、学徒戦時動員体制確立要綱が閣議で決定され、食糧増産・国防施設・緊急物資増産・輸送力増強に重点をおいて、学徒動員ははじめて国民動員計画のなかに位置づけられた。
立正大学(品川区大崎四―二―一六)の場合には、全学生(約七〇〇名)のうち五〇〇名近くが横河電機(川崎)、赤羽兵器廠、立川飛行場や軍需工場(月島)、さらに国電恵比寿駅や、遠くはダム工事で長野県姥捨まで動員で出かけて行くという事態になっていった。
昭和十九年(一九四四)一月には「緊急学徒勤労動員方策要綱」を閣議で決定し、戦時非常措置として、中等学校・高専・大学の修業年限を各一年ずつ短縮し、同時に、在学期間中一年につき約四ヵ月の期間、戦時勤労動員を実施することを決定した。
都立第八中学校(品川区小山三―二五)では、五学年二八学級、一、二〇〇名の生徒を擁していたが、昭和十九年四月二十日から、五年生二五〇名が石井鉄工所・冨士写真光機、五月二十日からは、四年生二九〇名が東京無線電機・日本理化工業・三井精機・理研発条に、八月二十五日からは、三年生二七〇名が東京無線電機・東洋酸素機械株式会社・小沢機器製作所へ、さらに十一月十四日から、二年生二九〇名が東京無線電機・理研発条・日満工業・東京動力機械へ動員された。
その間に、三月七日「決戦非常措置要綱に基づく学徒勤労動員実施要綱」が決定され、原則として中等学校以上の学生・生徒はすべて非常任務に動員できる組織的態勢におかれ、学校・宿舎は必要に応じて軍需工場・軍用非常倉庫・非常病院・避難住宅等の緊急の用務に供することとなった。
都立電機工業学校(品川区大井鮫洲町)の生徒四学年・一六学級約五〇〇名は、二学年以上が動員されたが、下級生は機械工養成所が併設されていたために学校内工場で働かされた。上級生は、藤倉電線株式会社などの外部工場に動員された。勤労動員は女学生にも及んでいった。
都立第八高等女学校・城南高等女学校(品川区東品川四―九一)は、三年生約二〇〇名が海軍衣料廠や同校体育館で、衣料の縫製をやり、四年生約三〇〇名は、電波探知器組立ハンダ付に従事した。五年生になると第八高女の二五〇名の生徒は、新潟鉄工株式会社で事務をとるだけでなく、旋盤作業もやらされ、城南高女の五年生約一〇〇名の場合は、富士川製作所(大森)で、海軍予科練用爆弾製造にも従事した。
都立品川高等実践女学校(品川区西五反田六―六―一九)も第二、三、四学年の生徒一五〇名を、沖電気・藤倉ゴム工業・明電舎に動員され、香蘭女学校(品川区旗の台六ノ二二―二一)は、第三、四、五学年の生徒約二四〇名を、鬼足袋工場や同校内において、軍服の襟章、ボタンつけ、軍服縫いに従事した。町田報徳学舎商業学校(品川区南品川五―一二―七)では、加賀機械製作所に出動し、機械作業・ポンプ製造に従事した。
戦局の悪化、戦時体制の徹底的強化から、航空機の緊急増産が至上命令になり、たとえば、立正学園女子高等学校(品川区旗の台三―二―一七)では、ほぼ全生徒数八四〇名が品川製作所(五反田)、大興電機株式会社(荏原)、長谷川歯車(大田区)、日本気化器(五反田)、品川電機(大田区)、日本ゴム(平塚)等へ行き、飛行機カバー・飛行機タイヤ・メーター・電機真空機、電波探知機など航空機関係部品の製造に従事していた。さらに、品川高等女学校(品川区北品川三一三―一二)では、十九年九月ころより、明治ゴム・藤倉電線・羽田航空製造で、現業作業に出動していた。
昭和十九年(一九四四)七月には、国民学校高等科児童、中等学校低学年生徒(満十三~十四歳)までも工場に動員するに至った。
たとえば品川区立東海国民学校(品川区北品川三丁目)は、昭和十九年九月~昭和二十年八月十五日まで、藤倉ゴム・井桁ガラスその他の工場で、防毒マスクの部分品や、電球の検査などの作業に従事させられた。
それは、文部省がこの時期に、国民学校高等科児童・中等学校低学年生徒の動員、一週六時間の教育訓練時間の撤廃、一日一〇時間勤労の励行、男女とも中等学校三年生以上の深夜業就業の断行などの実施通達によるものであった。事実上、七月から授業はなくなった状況で、学徒を生産現場に定着させることとなった。
さらに八月に「学徒勤労令」が公布され、学徒に限らず、学校長および教職員をも動員対象とし、学徒動員は、勤労即教育であるという指導精神を明確に示し、学徒勤労動員の運営上の手続を簡素化した。
昭和二十年(一九四五)になると、いよいよ空襲もひどくなり、本土決戦が叫ばれるなかで、二月、臨時閣議において「決戦教育措置要綱」が決定され、ここで国民学校高等科から大学にいたる全校の授業停止が正式に決定された。これによって従来学校において授業を受けていた中等学校一、二年生、大学・高専の一年生をも含めた全学徒が文字通り総動員されることになった。昭和二十年八月十五日動員学徒は全国で三一万人に達していた。
政府は、一方では、国民皆働・総員勤労配置を実現するため同二十年三月に国民勤労動員令を公布・施行した。
昭和二十年(一九四五)一月十八日、政府は本土決戦体勢をとるため、工場や地域などで国民義勇戦闘隊という全国民を兵士とする方針を打ちだした。大政翼賛会などを、この組織に改編していった。たとえば、大井工場でも、七月二十四日、大井工機部義勇戦闘隊が、緊急措置として結成された。
二十七日大神宮前において各隊全員集合、大井工機部義勇戦闘隊職員の命課布達式を挙行、八月一日大井工機部義勇戦闘隊編成完結式が行なわれた。この日宮城前広場で鉄道義勇戦闘隊編成完結式が行なわれ、岡村鉄道官以下五〇名が参列した。
「陸運年報」所載の鉄道義勇戦闘隊普及教育要旨は次のとおりであった。
一、鉄道義勇戦闘隊は天皇親率の軍隊なり
一、隊長は皇軍の指揮官なり、指揮権の承行は最も厳粛なるを要す
一、指揮官の命令は天皇の命令なり、謹みて承り直に実行すべし
一、我等の戦場は鉄道なり、誓って之か確保を期す
この義勇戦闘隊も日浅くして敗戦となったため幸運にも実際行動には至らなかったのである。
文字通り職場組織が軍隊のそれと寸分違わぬ状況になっていた。同じく大井工場の例をみると、工機部長は部隊長、職場長は職場隊長、後に戦隊長、助役は中隊長、以下小隊長・班長・隊員とした。このようにして工機部は次第に軍隊式となり、工機部標語にも、戦列復帰・職場死守・敬礼の厳正励行等をかかげた軍隊そのままの組織だった。
しかし、産業要員を確保する一方では、大規模な軍隊への召集、その穴埋めのための割当が、動員計画人員数の多くを占めるようになり、軍需生産増強のための労動力保全の労務管理は無視され、労働条件が改悪されていった。
昭和十八年(一九四三)六月には、「工場法戦時特例」および「工場就業時間制限令廃止の件」を制定して、成年男子労働者の就業時間制限の撤廃・保護職工(女子工員および十六歳未満の男子工員)に対する保護規定の緩和を行ない、また、厚生省令による「鉱夫就業扶助規則の特例」で、鉱山労働者にも同様の措置が適用された。
本土決戦化の様相がますます濃厚になるにつれ、錯乱状態を想起させるような事態となった。たとえば、それまでの現行規則では、保護鉱夫の坑内作業を禁止していたのを、石炭鉱山では十六歳未満の男子と二十歳以上の女子を、その他の鉱山では二十五歳以上の女子を坑内で就業させることができると改めた。これは、歴史の逆行であった。こうして炭坑は、文字通り最低の労働条件のところとなり、少しでもサボったり、反感と示したりする者があると、〝炭坑に送る〟ということばが、経営者や勤労動員署などの職員の殺し文句となった。