建物疎開

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太平洋戦も昭和十八年に入り、日本軍はすべての戦線で敗退が始まり、勢力範囲は日増しに縮小していった。一方、欧洲では連合軍による空襲が激しくなり、七月二十四日のハンブルグ、八月二十三日のベルリンへの空襲は従来の空襲の規模とは比較にならないほどの猛烈なものであった。

 これらの情勢から、日本でも、真剣に取り組むべき防空上の問題として「疎開」がとりあげられることとなった。

 政府は、十月三十一日、「防空法」を改正し、あらたに「分散疎開」、「退去ヲ命ズルコトヲ得」などの項目を加えるに至った。「退去」「疎開」は今まで逃避を意味し、防空上ではいわば禁止事項であった。


第147図 都市疎開に伴ふ地方転出証明書

 ところで、すでに昭和十六年ころより防空法第五条ノ五に基づいて、六大都市および北九州の工業地帯に対し、空襲による被害を軽度にとどめるため、防空空地地区の整備が検討されていた。

 十八年三月に至って、内務省告示第一八〇号、一八一号をもって、防空空地地区が指定された。指定地区内では新しい建築を禁止もしくは制限するというものであった。これにより、品川区では一三箇所約四万二三〇〇坪、荏原区では一箇所四、八〇〇坪が指定されたのである。しかしながら、これだけの規模の消極的な空地の指定だけでは火災の拡大を防ぐことはとうていできず、もっと積極的に空地を造り出すことが必要だった。

 昭和十八年九月二十一日閣議で決定された「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」により、東京都および重要都市の官庁施設の疎開が定められた。続いて、十二月二十一日には「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、人員疎開の勧奨、それに伴う移転奨励金の交付、公共施設の疎開、空地を造るための建物の強制疎開が定められたのである。

 この決定と防空法によって、昭和十九年一月二十六日、内務省は東京・名古屋に初めて強制建物疎開の第一次指定を行なった。二月二十五日には「決戦非常措置要綱」、三月三日には「一般疎開促進要綱」が閣議決定され、疎開施策が強く推進された。人員疎開については縁故疎開・老幼者疎開・帰農の勧めなどが強調された。建物疎開については、三月二十日に第二次、四月十七日に第三次、五月四日に第四次の強制建物疎開区域が指定された。これらの指定に、疎開空地帯(既存の空地や河川・鉄道などを利用して密集地帯に設ける)、重要施設疎開空地(重要工場の周辺)、交通疎開空地(駅周辺)、疎開小空地(家屋の密集している小地帯を単位に設ける)に分けられていた。これら四次の強制疎開は、東京都にあっては都防衛局のもとに、疎開戸数約五万五〇〇〇戸、疎開地区内居住者五万八五〇〇世帯を対象としていた。

 品川区・荏原区では、第一次から第四次にかけて、疎開空地帯として、大井町線(南品川三丁目~大井立会町、一万三八〇〇坪)、立会川線(大井浜川町~大井山中町、二万二二〇〇坪)、東海道沿線其の二(南品川四丁目~蒲田区仲六郷四丁目、一七万四七〇〇坪)、品鶴線(東大崎一丁目~大井森前町、三万五九〇〇坪)、品川目黒線(東大崎二丁目~大崎本町三丁目、三万二三〇〇坪)、重要施設疎開空地として、大森・品川区地内一万二七二五坪、荏原・品川区地内一万二四九〇坪、品川区地内六八八〇坪、交通疎開空地として五反田一丁目、三丁目(省線五反田駅東口)二、九〇〇坪、疎開小空地として品川区五ヵ所、荏原区二ヵ所が指定された。

 六月になるとマリアナ諸島に米軍が上陸、B29の爆撃範囲に完全に東京が入ることになった。六月三十日、閣議は「学童疎開促進要綱」を決定、東京都の国民学校生徒の集団疎開実施が決定された。十一月一日より、いよいよ東京はB29の空襲に見舞われることとなった。三日、「老幼者妊婦等ノ疎開実施要綱」が閣議決定され、疎開施策も本格的となった。昭和二十年に入るにつれ、アメリカ軍の空襲も激しさを増し、連日昼夜を分かたずB29の飛来が続いた。それに従い、間引疎開(家屋密集地域で消防上危険な地域の一定の建物を都が買い取り小空地を造るもの)も実施された。二月二十三日になって「工場緊急疎開要綱」がようやく閣議で決定され、工場を狙うB29の空襲からの被害を軽くしようとした。三月九日、学童疎開の強化のため「学童疎開強化要綱」が閣議決定された。

 そして、三月十日、空前の夜間焼夷弾爆撃によって、下町は壊滅的な打撃を受けた。今までの防空対策として行なわれた建物疎開、空地造りも何の役にも立ち得なかった。炎は地上をなめつくし多勢の人々を焼き殺した。

 積極的な防空としての施策だった疎開施策も、この日から罹災者対策、都市からの退去という消極的なものへと変化した。

 「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」(三月十五日)、「都市疎開者ノ就農ニ関スル緊急措置要綱」(三月三十日)、「現情勢下ニ於ケル疎開応急措置要綱」(四月二十日)などがあいついで閣議決定されたが、もはや防空上での積極策でなく、東京都に居る必要のない者への疎開強化であった。そして都民は、空襲と窮迫した日常生活から逃れるため、東京を去っていった。東京の人口は潮が引くように減っていった。

 民生局戦時援護課の調べによると、品川区と荏原区の人口は、昭和十九年二月がそれぞれ二一万四二七四人、一八万一四九七人、十一月が、一六万六三七六人、一四万六七三六人、二十年二月が一四万九八五三人、一二万七七〇六人、五月が一二万六九三七人、九万三九九三人、六月が九万八〇六四人、五万九六七三人と記録されている。