学童疎開は、昭和十八年後半から縁故疎開が行なわれていたが、十九年三月三日の「一般疎開促進要綱」の閣議決定によりさらに促進されることとなった。
四月一日現在で、品川区では三、四六〇人、荏原区では二、二六八人が縁故疎開を行なっていた。なお全都三五区ではその数は七万七二一三人に達していた。戦局は不利になるばかりで、六月三十日には「学童疎開促進要綱」が閣議決定された。これにより東京・大阪の国民学校三年生以上六年生までは保護者の申請をうけて集団疎開させることとなった。
品川区の学童は対象児童が一万三六四七人、疎開児童概数八、五〇〇人、疎開先は三多摩、荏原区は対象児童一万四一四〇人、疎開児童概数六、七〇〇人、疎開先は静岡、とそれぞれ割り当てられた。そして太陽が焼きつけるような暑い八月四日、品川区の城南第二国民学校は、西多摩郡瑞穂町に疎開した。この日は、他に板橋区の学童も群馬県に疎開したが、学童疎開第一陣であった。こうして九月までに二〇万人の学童が親元を離れることとなった。
最初は旅行のつもりでうきうきしていた学童も、日が経つにつれ、親や兄弟が恋しくなり、集団生活でのいろいろな障害にぶつかることとなる。しかも東京はもはや〝戦場〟と化し、離れている肉親がいつ死ぬかもわからない。食糧事情は悪化しているし、物資不足のおり、衛生状態が悪かったのか、ノミとシラミが蔓延し、いくら退治しても徒労に終わった。
当時、東京都の視学という職責で、品川区の学童疎開地をすみからすみまで歩いた久米井束は、その著書『疎開の子と教師群像』で、こう記している。
「他の疎開地が、多くは温泉場などの大集団地であり、旅館がそのまま学寮となっていたのに対して、西多摩・南多摩は温泉がなく、したがって旅館施設ではなく、すべては寺院や社務所、公会堂などでした。たいていは、川のほとりや、山のふところにあり、交通も不便で、ただ特色は、空気が清らかで、静かだということでした。」
「のみしらみになやまされることはあっても、他の疎開地で起こった性病の感染というようなことは、ゆめにも思うことはなかったのです。むしろ子どもたちは、寺の住職から、法話をきき、読経の声をきき、みずからもほとけさまをおがみ、清らかな野と山と水と空気とのなかに、あけくれしたのでした。」
三多摩に疎開した品川区の学童は、父母の面会にも近くて便利であったし、他区に比べて恵まれた疎開環境だったといえる。
また前掲書に収録されている児童の作文に『集団生活の一日』(浅間台国民学校六年・大那庸之助)を紹介しよう。
「ピピー」と笛が鳴る。六時半、起床である。起きると同時に、ふとんの上に正坐する。「エイッ」先生の気合いもろとも立ちあがる。そしていそいでふとんをたたみ、すぐに宿舎清掃にかかる。
作業がすみ、顔を洗ってから、すこしたって朝礼がはじまる。一番最初に宮城を遙拝する。それから東京におられる父母にあいさつをし、そうして先生にあいさつをする。それからラジオ体操、ラジオ体操が終ってから、朝の食事である。神棚を礼拝し、そうしてごはんを感謝しながらいただく。食事がおわってすこしたち、八時五十分から勉強がはじまる。勉強は二時間、十時二十分に終る。それから十一時三〇分まで自由時間である。その間は手紙を書いても、何をしてもいいのである。
昼の食事がすんで、十二時三十分から、今度は分教場での勉強がはじまる。四時間の授業がすんでから夜の食事まで自由である。(中略)
八時になると、みんな本堂の前に集まる。いちばんはじめに、東京におられる父母に夜のあいさつをする。それから先生にあいさつをする。(中略)「消燈五分前」先生の号令がかかる。すると、立っていたものは床にはいる。それから五分たつと、また「ピー」と、笛が鳴る。
消燈、話をしていたり、本を読んでいたものもみんなやめる。そうして静かに寝につくのである。
そして、昭和二十年三月十日、下町への米軍の無差別焼夷弾絨緞爆撃により一〇万人の人びとが亡くなった。そのなかには、疎開先から中学校受験のために帰った六年生も多くいた。また、疎開先へ肉親の死の悲報が届いた児童も多かった。幸い品川区・荏原区ともこの日の被害はほとんど無かったた。
そして学童たちはいろいろな想い出を残しながら、敗戦を迎えた。
昭和二〇年十月十日現在の、疎開先から帰ってきた学童数についての調べは、三五区については、集団疎開者九万四四〇九人、縁故疎開者一〇万八五八二人、既在京者九万一七二三人、現地残留者一万七〇五一人、品川区については、それぞれ二、九三〇人、七七〇人、三〇〇人、一、〇〇〇人、荏原区については、それぞれ二、七六七人、三、四〇〇人、二、三五〇人、一、〇〇〇人であった。