戦災

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太平洋戦争の開戦から間もない昭和十七年三月五日八時八分、東京で初めて空襲警報が発令された。それから一月半後の四月十八日、日本本土は初めて米軍機の侵入を受けた。東京より一、三一七キロメートルの海上の空母ホーネットからB25中型爆撃機一六機が飛び立ち、東京・川崎・横須賀・名古屋・神戸などを空襲した。東京へは単機づつ一三機が飛来し、荒川・王子・葛飾・牛込・小石川・品川などが爆撃された。このB25爆撃隊の隊長がドゥリットル中佐であったことから、この初空襲はドゥリットル空襲とも呼ばれた。飛来したB25は中国基地などに不時着、多数の搭乗員が日本の捕虜となった。

 昭和十六年十二月八日の真珠湾奇襲攻撃に対する、米国の報復行為として行なわれたこの初空襲は、〝損害軽微〟でこそあったが、軍部は簡単に東京上空に米機の侵入を許したことに大きなショックを受けた。

 品川区の被害は警視庁警備係資料によると、大井関ヶ原町・大井滝王子町・東品川五丁目・西品川四丁目に爆弾と焼夷弾が落とされ、死者二六人、重傷三一人、軽傷一八八人、全壊家屋二〇戸、半壊・半焼・小破家屋八四戸を出した。

 この東京初空襲の模様を『大井工場90年史』は次のように記録している。

 

……昭和十七年四月十八日、たまたまその日は在郷軍人会大井工場分会の査閲の日に当っていた。麻布連隊区司令が見えるというので三百数十名の会員を3個中隊に編成し工場グランドに整列し、午後1時に初まる受閲に待機していた。

 この時西方に異様な爆音と同時に百雷一時に落るがごとき大音響が起り、全員は瞬時耳を覆った。見ると御料車庫の上空から見馴れない飛行機が低空飛行してきて工場の上空を旋回し、またたく間に東海道線そいに海上へと姿を消した。これはわずか数分間の出来事でしかなかった。緊張して整列していた会員は敵機来襲と気付くや、あたかもくもの子と散らすがごとく散っていった。

 そのうちに大崎被服工場に爆弾が投下され、多くの死傷者を出したという情報が入り、全員のろうばいは極度に達し、司令官は直ちに査閲中止、解散を命じた。間もなく被服工場より多数の負傷者がトラックやタンカで診療所へ送りこまれて来た。

 コンクリートの下敷になったもの、ガラスの破片が顔面に入った者等の負傷者で診療所は一杯で廊下にまで寝かされ、苦痛を訴えるうなり声や、看護婦に人工呼吸をされている者もあって、目を覆う状景であった。

 翌日の新聞にはこの東京初空襲が大きく掲載され、「早稲田方面(機銃掃射)大崎被服工場(爆撃)、大井東京電気(爆撃)等各地に相当の被害を与えた敵機は、ノースアメリカン爆撃機で、東京を襲撃して支那大陸にとん走した」と報じていた。

 この空襲は、緒戦の戦勝に酔っていたわが国民が不意の一撃を与えられたもので、しかもわが大井工場が爆撃の目標にされた。が爆弾はそれて、その周囲の被服工場や大井東京電気に落下したものらしい。工場内では製材職場から食堂北部にかけて、焼い弾の落下が36発あったが、当時そこにあった木材乾燥用のボイラ室にいた動力職場員や附近にいた職員が消しとめて難をのがれた(『大井工場90年史』一四七ページ参照)。

 

 その後、六月五日東京空襲の禍根を断つために、日本は空母ホーネットなどの基地とみられるミッドウェー島を襲ったが完敗した。この頃から太平洋戦争の主導権は米国に移っていった。ガダルカナル島攻防戦、ソロモン沖海戦と南太平洋での海戦でいずれも日本は敗れ、十九年六月十五日、ついに米軍はサイパン島へ上陸を開始した。同じ日、中国の成都からB29が九州八幡地区に侵入、初めて日本本土を空襲した。

 サイパン・グアム・テニアンのマリアナ諸島を失うことにより、日本は完全に制空権を失い、B29の航程距離内となった。このため国内にあっても、東条英機が退陣、疎開をはじめ、防空態勢の強化が叫ばれた。

 そして十一月一日、B29一機が初めて東京上空に現われた。高度一万メートル上空を悠然と飛ぶB29に対して、日本の軍防空陣は為すすべがなかった。この日は投弾はなく、偵察飛行であった。偵察は五日、七日と続いた。

 十一月二十四日、マリアナ基地を発進したB29八八機は、十二時十五分、東京を初爆撃した。北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所が米軍の目標であったが、この日は雲が天を覆い風も強く、爆撃は妨げられた。二四機のみが中島飛行機を爆撃、残りは江戸川・杉並・荏原・品川・東京港湾地区などに投弾した。

 区内では、荏原区西戸越一丁目・平塚一丁目・東戸越三丁目・豊町一丁目・品川区西大崎一丁目・五反田一丁目・六丁目などに被害が出た。この日から東京は本格的な空襲にさらされることとなった。

 十一月二十七日、米軍は再び中島飛行機武蔵製作所を目標にB29六二機を発進させた。しかし、この日も日本の上空は完全に雲で覆われ、第二義的目標の東京市街地・港湾地区・浜松・沼津・静岡などに爆撃は変更された。二十九日は初めて夜間焼夷弾空襲が行なわれた。三十日にも空襲があったが、区内にはいずれも被害はなかった。

 十二月に入り、三日にまた中島飛行機がB29七六機に爆撃され、六日、十一日、十二日、十五日、二十日、二十一日、二十四日と少数機の空襲が続いた。十一日はB29二機が来襲し、品川区大井滝王子町・大井庚塚町・大井出石町・大井森前町・大井坂下町・大井水神町に被害がでた。そして二十七日には三日に次いでB29五二機が中島飛行機を空襲した。しかし被害は附属病院だけであった。三十日、三十一日とB29一機の空襲があり、都民は除夜の鐘ならぬ警戒警報発令中のまま昭和十九年を送った。

 明けて昭和二十年元旦は、零時五分から空襲。二波にわたって少数機が江東方面を焼夷弾攻撃した。都民は恐怖におののきながら正月を迎えた。五日にも少数機空襲があり、九日はまた中島飛行機をB29七二機が爆撃した。

 強風と悪天候のため目標に爆撃できたのは一八機だけだった。十一日にも少数機の空襲があった。

 その後も空襲は連日続いたが、とくに都民に最大の衝撃を与えたのが、三月十日の東京大空襲であった。

 三月十日零時八分、超低空で侵入したB29一番機は北北西の強風をついて深川地区に投弾した。次いで続々と侵入したB29はM69焼夷弾をバラまき始めた。空襲警報が鳴ったのは火災の発生した後の零時十五分であった。それまでは昼間高々度の精密爆撃だったものが、夜間超低空焼夷弾爆撃へと戦術を変更したのが、この三月十日の空襲だった。下町一帯はたった二時間半の焼夷弾絨緞爆撃により、一望の焼け野原となる史上最大の空襲となった。また、この作戦は、米軍の沖縄上陸作戦支援の一環でもあった。アメリカ軍の非人道的な無差別爆撃の典型だった。

 被害区域は本所・深川・城東・浅草・下谷・日本橋を中心として、足立・神田・麹町・本郷・芝・荒川・向島・牛込・小石川・京橋・麻布・赤坂・葛飾・滝野川・世田谷・豊島・渋谷・板橋・江戸川・四谷・品川・蒲田・王子の二九区に及び、一五・八平方マイルが焼失した。警視庁調査によると、死者八万三七九三名、負傷者四万九一八名、被害家屋二六万八三五八戸、罹災者一〇〇万八〇〇五名と記録されている。しかし完全に炭化した遺体や、川底に沈んだりの遺体も多く、恐らく一〇万人を超える人びとが犠牲となったと推定されている。一度の被災では広島の原爆被害に次ぐ非惨な空襲であった。

 品川区の被害は高射砲の破片に当たって死亡した二名であった。

 この日の空襲以来、名古屋・神戸・大阪と日本の主要都市は焼夷弾により焼き払われることとなった。

 その後、三月十四日・十八日・三十日・三十一日・四月一日と少数機による空襲があった。四月二日、四日と比較的多数の一〇〇機以上のB29により中島飛行機武蔵製作所や、立川飛行機工場などの重要工場が中心に爆撃された。四日には品川区・荏原区にも被害があった。荏原区二葉町二・六丁目に爆弾が落とされ、東中延四丁目の東京食糧倉庫事務所には二五〇キロ爆弾が直撃して負傷者が出た。品川区大井坂下町には爆弾八個が落下して死者一三名、重傷者一一名、全壊家屋一二戸の被害があった。また品川区役所付近の明治護謨株式会社に三個、区役所税務課に一個、清見寺に一個の爆弾落下により、死者一九名、重傷者四名の犠牲者がでた。

 四月七日、十二日には武蔵製作所がB29一〇〇機以上によりまたもや爆撃された。この日、硫黄島からP51ムスタングを中心とした陸上機がB29を護衛して初めて東京上空に姿を現わした。

 四月十三日・十四日は、三月十日に次ぐ夜間焼夷弾空襲が行なわれた。B29三三〇機により、二一三九トンの爆弾が落とされた。豊島・淀橋・小石川・四谷・麹町・滝野川・赤坂・渋谷・牛込・荒川など二四区に被害が及び一一・四平方マイルが焼失した。死者二、四五九名、負傷者四、七四六名、罹災者六四万〇九三二名であった。

 二日後の四月十五・十六日には、再びB29三〇三機が、東京・川崎・横浜を焼夷弾爆撃し、一、九三〇トンの爆弾を投下した。東京では六平方マイルが破壊された。

 「主トシテ油脂焼夷弾ニヨリ一部ニ爆弾ヲ混投、連続波状攻撃ヲ行ヒタル為メ被害地域ハ瞬時ニ多発火災発生セリ。民防空ハ全ク戦意喪失シ見ルベキモノナク、向島・江戸川・日本橋ノ各区ヲ除キ他ハ合流火災トナリ広範囲ニ亘リ焼失セシメタリ」と警視庁消防部の「空襲災害状況」は記している。被害のあったのは、大森・目黒・蒲田・麻布・荏原・世田谷区の大部分と渋谷・向島・日本橋・江戸川区の一部であった。死者八四一名、負傷者一、六二〇名、全焼家屋六万一八四七戸、罹災者二四万一七一三名にのぼった。

 今まで大きな空襲から免れていた品川区・荏原区も、初めて大きな被害を出した。品川区では上大崎・大崎本町・五反田五丁目・大井水神町・鈴ヶ森町・倉田町・元芝町・関ヶ原町・坂下町・山中町・南浜川町・北浜川町・海岸町、荏原区では小山二~六丁目・中延五丁目・東中延四丁目・荏原四丁目に火災が発生した。また品川区で死者一二名、負傷者三名、全焼家屋一、六三四戸、罹災者八、一一三名を数え、荏原区では死者一名、負傷者八名、全焼家屋一、七六六戸、罹災者六、七九七名にのぼった。

 山田風太郎は「戦中派不戦日記」のなかで、この日の爆撃について次のように記している。

 

 昨夜は主として京浜西南部――品川より横浜にかけてやられ、この方面よりの電車まったく絶ゆ。祐天寺・目黒区役所附近・清水・鷹番町も焼失せりと。武蔵小山はほとんど全滅せりとのことなり。池上線・目蒲線・東横線等全線絶えたり。……焼夷弾はさながら夕立のごとく降る。……

 

 四月十九日にはB29とP51が来襲、荏原区六丁目八一番地疎開跡地へP51一機が墜落し搭乗員一名が捕虜になった(帝都防空本部原資料にも町名が欠けている)。

 五月に入り、一日・七日・十二日・十九日・二十日と少数機の来襲はあったが、本区の被害はなかった。五月二十四日、これまでの最高機数のB29五二五機が一時三六分より空襲を開始した。爆弾と焼夷弾の混投で投下トン数も最高記録の三、六八七トンに及んだ。この日の空襲により、東京の約半分を占める地域が罹災し、死者七六二名、負傷者四、一三〇名、全焼家屋六万四〇六〇戸、罹災者二三万八三七六名にのぼった。

 この空襲は品川区・荏原区にとって最大の被害をもたらした。品川区南品川六丁目、西品川三・四丁目、東品川一~三丁目・北品川一・三・四・五・六丁目、五反田一・二・五・六丁目、下大崎六丁目、上大崎三丁目、東大崎三・四丁目、西大崎一~四丁目、大崎本町一~三丁目、大井鎧町、林町、森下町、原町、関ヶ原町、北浜川町、鮫洲町、鈴ヶ森町、元芝町、伊藤町、倉田町、山中町、滝王子町、庚塚町、荏原区平塚一・二・八丁目、荏原二丁目、小山一~三丁目、小山台三丁目、東戸塚、二葉町五丁目、東中延四丁目が罹災し、品川・荏原両区のほとんどの区域が火に包まれた。

 品川区は死者六八名、重傷者五七三名、全焼家屋九、五四〇戸、罹災者三万四四五九名にのぼり、荏原区は死者一八四名、重傷者一、七一二名、全焼家屋一万五〇〇〇戸、罹災者六万名にのぼった。区内は一望の焼け野原となったが、当時、病気療養中の友と二人で上大崎一の四九七、石川惣吉方のアパートに住んでいた北村世記(会社員、二九歳)は、この時の経験を次のように記している。


第150図 品川・荏原区戦災図

 

体験記

 五月二四日の晩、早くも九時に空襲警報が発令され、ただならぬ気配を直感する。「東部軍管区情報、敵一機本土に侵入せり、つづいてB29の大編隊ぞくぞく侵入しつつあり」というラジオの声が終わらないうちに、たちまち一機の後からビュウーンビュウーンと無気味な重苦しいうなりが数をまして、次第に頭上近くなる。「東部軍管区情報」はつづけられる。敵はなおも第二の大編隊、東方洋上にありと放送はつづく、爆音が頭上近くなった瞬間パアーッと、空一面まひるのように明るく照らし出され、三機、五機、七機と、見事な編隊を組んでぞくぞく進んで来るのが見えた。全員待避命令が出て防空壕に身をかくす。しばらく身を伏せていたが、半身をのり出して空をのぞくと、敵機の中に日本の爆撃戦闘機も入りまじって、双方キカン銃で応戦、パンパンパンパンと小きざみな音に火花が散っている。高射砲も各方面からさかんに撃ち出しはじめた。敵機の下腹にあとちょっとのところで届くほど惜しい弾もあったが、的中誠によく、火を吐きながら落ちてゆく機体をはっきり見ることができた。

 そのうち恵比寿駅の方面から、両翼が燃えながら麻布の方角に落ちゆく一機が、片翼を焼きおとしたと思ったら、とたんに向きを変えて私達の真正面めがけて来た。夢中で壕に伏せ、同時に五〇メートル先の、伏見宮様ご別邸の林に突込み、大音響とともに地面がゆれ、どーっと一〇メートル余の火柱があがった。

 その直後、低く爆音がと思うまもなく、ザアーッ、ザーッと雷雨のようになにか降ってきた。つづいて焼夷弾の雨、バケツリレーの消火作業などの暇なく、焼夷弾の突先に火がメラメラとしながらつぎつぎと家々の屋根の上に、軒下に、表も裏も、道路も集中的に、バラバラと落ちて来てどうすることもできない。

 電柱は火柱を立て、電線はシュウ、シュウ音を立てて左右に火花をちらし、火の手はますますはげしくなり、第三日野国民学校は天をつく勢いでもえさかり、道下にある逓信省電気試験所の木造建て倉庫七棟は一気に炎を吹きあげており、熱くて熱くてどうしたらよいのかわからない。勿論停電で軍管区情報も、ラジオもない。ふと気が付くと傍の奥深く掘った防空壕に、直撃弾が五発も突きささり、ボーウボーウと火と煙を出している。中にいる皆をよびだし今こそと気がつき、防火用水の中に、毛布や座布団をつっこみ水をたっぷり含ませて防空頭巾の上からかぶり、風も出て来てごうごうと鳴る火の海と化した熱風の道を声を限りに走りつづけた。

 なかには「私はもうだめだから残して先に行ってくれ」と、腰が立てなくなった人もいたが、手をむりにひっぱり、肩をかして、夢中で二本榎の山にかけあがった。

 火はますます勢力をまして追いかけてくるように見え、山の立木をバリバリと音をさせて焼き、私達にせまって来る。水にぬらして来た毛布も座布団もカラカラにかわぎ、ボロボロに千切れる、のどはピリピリ痛む、ザックの中の水筒は飲まないのに涸れており、バケツの底にわずかに残っている泥の中に手拭を突込み、チュウチュウすする始末、もうこれ以上火に追われたらとてもにげられぬと覚悟を含めて七人(御主人と別々にのがれた奥様が二人と妹一人、母と子、私達二人)女性ばかり、皆固く手を握りあわせて、じーっと祈りつづけていた。しばらくして眠ったものか、静かに目をあけたら、夜もしらじらと明け、午前四時少し回ったところだった。

 ようやく火も弱まって来たので、山をおり焼跡に戻る。このあたりは山が幾つもあったので、池田山にのがれたもの、近くの通称お化け屋敷とよばれた山にのがれた人達も、三人、五人と戻り、組長のところに集まった。

 どの顔も皆真赤な目で、黒くすすけた顔ばかり、二人の子供だけが無心に母の背中でぐっすり眠っていた。幸い組長さんほか二人の男の方が軽い火傷をしただけて、全員無事な姿を見て手を取り合い、うれしさやら感無量で自然と涙がこみあげて来た。

 見渡せば上大崎の私達の一円は焼け野原となり、白金今里町の一角と、お寺が上の方で三軒、それに電気試験所四階建てコンクリートの本庁舎が残っただけとなる。組長さん宅で昨夜壕の中でくすぶったケムリ臭い米を炊き、皆そろって朝食を食べる。まだまだ熱いくすぶりつづける焼跡を片付ける。直径一五センチ長さ一メートル前後の焼夷弾のカラ缶、六角、丸型合わせてほんの五〇坪ばかりの私達アパート跡に四八発もあり、ぞっとした。

 

 国鉄大井工場もこの空襲で被害をうけた。二十四日午前二時、エレクトロン焼夷弾五〇Kが同工場養成所二階に落ち、みるみる炎はもえ広がり、隣接の職員更衣所・浴場・職員調理場・小使室・本場事務室・診療所を類焼、明け方までもえつづけ、これらの建物を全焼した。幸い死傷者は一名もなかった(『大井工場九〇年史』一四七~八ページ)。

 なお、大井工場で、昭和十九年十一月から敗戦まで、戦災をうけた職員は次のとおりであった。

 戦災職員数(住宅・家財)     一、四一二名

 戦災のため死亡職員数          一〇名

   〃  死亡家族数     二〇家族 五五名

   〃  重傷を負った職員数      一五名

   〃  重傷を負った家族数 七家族  一〇名

 翌日の五月二十五日、昨夜の余じんさめやらぬなかを再びB29四七〇機が来襲、焼夷弾を中心に三、三〇二トンの爆弾を投下した。この日の罹災体験を、当時、荏原区西中延九三〇に住んでいた佐野芸子は次のように述べている。

 

 昭和二〇年五月二五日、夜一一時前後だったと思います。

 いつものように枕元に非常持ち出しのリュックをおいて寝につきました。私はまだ眠りにつきませんでした。突然、警戒警報のサイレンがけたたましく鳴りひびいたので、急いで、かたわらの夫をゆり起こしました。夫は、ウンウンまたか、といった調子。『今夜はどこだろう』と、一言、二言話しているうちに、今度は空襲警報です。さすがの夫もガバッとはね起き、ゲートルはいつものように巻いて寝ていましたから、上衣だけの身支度、この間わずか二分。

 そのうちバラバラと焼夷弾の雨。庭に掘ってあった防空壕あたりもメラメラとあたり一面燃え始めました。もう駄目だ逃げようと外に出たが、ザザー、ザザーと、竹薮を風が吹きぬけるような焼夷弾の落下音と炸裂音におびえる人達が右往左往。そのうちに一面真赤。これは危険と、少しでも暗い方面を見さだめて逃げまどううち、夫とはぐれてしまいました。私の家の真裏は、幅約七メートル、深さは地面から水面まで約三メートル、水の深さ約五〇センチ、その頃はザリガニとかエビガニとか生きものもいたきれいな水。上流は目黒あたりから下流は大森の森ケ崎の海へ流れ込む有名な立会川です。この川へみんなで飛び込んで、中には腰の骨、足の骨を折った人、また焼夷弾の直撃を頭に受けて即死した人、一〇歳の男の子で足にやはり直撃を受けた近所の人もおりましたが、とにかくこの川で助かった人は数知れませんでした。私は夫と別れ別れになり、我が家から一〇〇メートルくらい先のこの川に飛びおりて助かりました。この時、何としてもリュックを背負っていては飛びおりられないので川のふちに置いておきました。その川は身動きもできない人で、水はお湯のように熱くなっていました。この川の中にも遠慮えしゃくなく焼夷弾は降って来ます。私はただもう必死になって、思わず「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と念じました。ふと前の人を見ると、防空頭巾に火のかたまりが飛んできて燃え出しました。私は懸命に水をかけて消しました。みんな誰言うとなく、〝頑張れよ〟〝頑張れよ〟〝この川沿いの家が燃えつくすまでの辛抱だ〟〝死ぬ時は皆一緒なんだ〟……、と励まし合いましたが、西川沿いの猛火の凄惨さはとても私には説明できません。何しろうなりをたてて火の粉ならず火のかたまりが、頭上に飛んで来るのです。

 この頃には、B29はもう去ったと誰かが言い出しました。今はもう、川沿いの家々の焼けおちるのを待つばかりです。消防隊も、私共のふだんの訓練もこの大火の前には、ただ燃えるにまかせる外、手のつけようもありません。やっと八分通り焼けつくし、B29はとうに去った午前四時頃、まだ「敵機ではないか」と思われる、ガランゴロンという音がするのです。そろそろ川を引き揚げる頃、ふと戸越方面(一キロ先)を見ると、空はまだ真赤で、何やら大きなかたまりが泳いでいるように見えました。これはたつまきが起きて、トタンや屋根ガワラ、看板などが舞い上がっているのだとききました。その影響で焼跡の火も舞いあがり、危険でその場にも居られず、『早く我が家の焼跡へ行って夫と会いたい……』気がつくと、夜がしらじらと明けてきました。

 川からやっと這いあがり、飛び込んだ時にリュックを置いたところへ行ったら、リュックの中のジャガイモが黒こげにちょうどよく焼けていました。それをかき集め、やっとの思いで我が家の焼跡にたどり着きましたら、よれよれのレインコートを着て、泥だらけになった主人を見付けたのです。この時の感激と喜び。ああ生きていた、二人とも無事だった……。主人の泥にまみれた腕時計は五時をさしていました。この夫の手を、かたくかたく握りしめ、あとからあとからでてくる涙をどうすることもできませんでした。そして、先ほどのジャガイモを朝食にしました。

 さきの二十四日の空襲に続いて、中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷・本郷・渋谷・目黒・杉並区の大部分が被害を受け、小石川・江戸川・下谷・京橋・淀橋・足立・神田・荏原・品川・豊島・王子・日本橋・板橋・向島・滝野川・荒川・葛飾・城東・浅草・大森区の一部、そして立川市、北多摩郡の一部も被害を受けた。ほとんど東京全域にわたった。

 死者三、五九九名、負傷者一万七八九九名、全焼家屋一六万五一〇三戸、罹災者六二万一二五名にのぼった。品川・荏原両区にあっては、品川区で死者九名、負傷者二三名、全焼家屋七五〇戸、罹災者三、七六二名、荏原区で死者一名、負傷者二六八名、全焼家屋四六七戸、罹災者二、五〇〇名にのぼった。品川区上大崎一~五丁目、長者丸、中丸、下大崎二丁目、西大崎三・四丁目、南品川三・四・六丁目、西品川三丁目、荏原区二・三・五丁目、小山三丁目、平塚八丁目が罹災した。

 三月十日、四月十三・十四日、四月十五・十六日、五月二十四日、五月二十五・二十六日の五回にわたる夜間焼夷弾攻撃により、東京は完全に焼け野原となった。こうして東京を焼土と化した米軍は、その戦略目標を地方の中小都市に移行することとなった。また都民は、防空訓練によってたたき込まれた〝決死の消火作業〟を三月十日の空襲以来放棄していた。〝火がついたらすぐ逃げる〟ことが一般化し、戦意も低下の一途をたどり始めていた。しかし、このことが被害を少なくする結果をもたらした。

 五月二十九日、B29とP51戦略連合の多数機が侵入し、芝・四谷・牛込・品川・目黒・大森・蒲田の各区内が被害を受けた。品川区では品川区北品川一・二・三・四・六丁目、西大崎一・二丁目、東大崎三~五丁目、大井海岸町、坂下町に被害があった。死者二名、負傷者二九名、全焼家屋四五五戸、罹災者二、三〇八名にのぼった。

 八月一日、二日、B29三一〇機が八王子市を空襲した。地方中小都市空襲の一環であった。八月三日、五日、七日、八日、十日も空襲が続いた。この間、六日には広島に、九日には長崎に原子爆弾が投下された。ソ連が対日宣戦を発した。日本の敗北は確実なものとなった。

 八月十三日、艦上機約五〇機が来襲、京橋・芝・下谷・品川・蒲田・大森・荏原区内に機銃掃射を行なった。品川区東品川・大井北浜川町・大井鹿島町・大井倉田町・大井出石町・大井滝王子町・大井関ヶ原町等各地に被害が出、死者一四名、負傷者一五名、全壊家屋一七戸、半壊家屋一四戸にのぼった。この日の空襲が品川区の最後の空襲となった。

 品川区は、三十五区のなかでは被害は少ない方であった。三月十日、四月十三・十四日、四月十五・十六日の空襲を全面的に受けなかったけれども、昭和二十年六月二十一日現在の東京都道路課調によると、一〇・一六平方キロメートルのうち三・九〇平方キロメートルが罹災した(罹災率三八・三九%)とくに、三・八平方キロメートルの荏原区はその三・六八平方キロメートルが罹災し罹災率は九五・七八%で、区のほとんど全部焼き尽くされたことになる。なおこの率は三五区内で最高であった。

 また、帝都防空本部と警視庁消防部の資料によると、品川区の場合、戦前人口二三万五二一五人が昭和二〇年四月現在で一二万六九三七人、さらに六月一〇日には九万六六七七人と減っている。荏原区の場合はそれぞれ、一九万六七二〇人、一一万四八七七人、三万五三一三人である。ちなみに東京都三五区ではそれぞれ六八七万五二六二人、三二五万六六四九人、二三三万九一二一人となっている。

 また六月十五日現在で、罹災者は品川区で四万八六六四人、荏原区で七万三九九人、三五区と都下を含めて二八五万四七六一人であった。

 <財団法人・東京空襲を記録する会編集刊行の『東京大空襲・戦災誌』(全五巻)に収録された資料を参考にした>