(1)市郡併合以降の教育機関

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 昭和七年、東京市併合によって、この地区には品川区・荏原区の二区が設置されたのであるが、両区ともに昭和十四、五年、太平洋戦勃発前までにほぼ完全に市街地へと転じてしまう。

 しかし、その市街地化の勢いは、大震災以降から昭和五、六年の時期にくらべるとはるかににぶくなり、碁でいへば寄せの段階へと進み、各所の空白がうめられて行くという形勢をしめしていたといってよい。従って教育機関でも、小学校の新設はすでに峠を越したといってよく、荏原南部、大井などの都市化の遅れたところに、何校かの新設校が設けられる程度であった。

 しかし、いっぽう住宅地化開始から十数年の年月がたった関係で、中学校以上への進学者の増加が著しくなり、それに対応して、とくに私立女学校の創設が、区内の各地で見られるようなる。すなわち、町田学園・小野学園・青蘭学院・香蘭女学校などの誕生や転入である。

 また、軍国主義化が進行しつつあった関係で、教育面にもその影響が及ぼされて来た時期であり、昭和十年の青年学校の設立、昭和十六年には国民学校制がしかれ、授業内容も大きく変化する時期にもあたっていた。