1 概説

767 ~ 774

 昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降服した。品川・荏原両区民のなかには、日本軍の戦況が不利になってきたことや、連日連夜の米軍機の空襲から、日本の敗戦をうすうす感じていたものもかなりいただろうし、他方では、あくまで「神国」日本の不敗を固く信じている人々も少なくなかった。しかし、いずれの考えをもっていた人でも、突然の無条件降服には、おしなべて、しばらくはぼう然自失の状態に陥ったことは否定できない事実だった。たとえば、八月十五日の思い出を、学童疎開にいっていた国民学校六年生の一女生徒は、次のように作文に綴っている。

 

 あの日は、ちょうど学校は、お休みでした。へやにさしこむ太陽の光をあびて、いろいろと話しあっていました。すると先生が、

 「きょうの新聞当番さんは」

 「はーい」

 わたしはいそいで、新聞をとりにいきました。…………一枚をお寺さんのおばさんに渡して行こうとすると、

 「きょうの正午に、天皇陛下みずから、ご放送なさるそうですよ」

 と、いわれました。わたくしは、それをきいてびっくりしてしまいました。

 いそいで先生にそのことをいいますと、先生はびっくりなさって、おっしゃいました。

 「もったいないことです」

 するとみんなが、

 「そのこと、ほんとうなの」

 ときいたので、

 「ほんとうよ、いまお寺さんのおばさんにきいてきたのよ」

 「もったいないわね」

 という人もありましたが、わたしはなんともいえませんでした。

 それから午後、待ち遠しいような、恐ろしいような気がして、ラジオの放送を、お寺さんのおうちで聞かしていただくことになりました。

 いよいよその時刻がきて、ものさびしい音楽がはじまりもったいなくも玉音を拝聴いたしました。

 何だかむずかしいことばのようで、また、かたじけないようで、しぜんに涙が出て、意味はわかりませんでしたが、かいせつによって、大東亜戦争の終結であることを知りました。

 思っていなかった敗戦とは……ほんとうかしら、なんだかあっけないような、うそみたいで、ぼんやりとあたまがふらついて、目の前が見えなくなってしまいました。でも、いまの放送によってたしかに聞いたのだったと、自分をしかりつけ、涙をそっとふきました。みんなのすすり泣く声もきこえてきます。

 あのときのくやしさ。あの日まで、どんな苦しみにもうちかって、大東亜戦争を勝ちぬくつもりでいたのです。でも、ご詔勅によって、戦いははじまり、戦いは終ったのでした。ほんとうに、何から何まで、水のあわになってしまいました。」

(「戦争が終って」鈴ケ森国民学校六年 郷田春美 久米井束著『疎開の子と教師群像』所収)

 連日連夜続いた米軍の空襲は、その日で、うそのようにぴたりと止まった。敗戦・占領、いったいこのあとどういうことになるのか、かいもく見当もつかない不安が、全区民の頭をおおっていた。しかし、ともかく空襲の恐怖がなくなったことだけは、ありがたかった。むやみに青空は広々と澄みわたり、区内のたいていのところから、富士山や丹沢の山なみが、くっきりとみわたすことができた。立会川でも、目黒川でも水がきれいにすみ、第一京浜国道の橋のそばで、夕げの魚がつれた。

 しかし、戦災をうけたところは、一面の焼け野原で、焼け残りの材木やトタン板の屋根の壕舎が、わびしくあちらこちらにぽつんぽつんと建っていた。同じく学童疎開から帰ってきた生徒が、焼け野原になった町や、焼けた自分の学校や、自分の家のむざんなありさまに驚いて書いた作文は、当時の状況を次のように伝えている。

 

 十月二十三日、一年二カ月ぶりで大崎駅についてみると、明電舎、そのほかの建物は、かわらぬ姿でたっていた。整列してから、ぼくたちは一路母校へむかった。

 なつかしい西品川の地をふんで、母校へいそぐ足どりが、なんとなくもどかしく感じた。しばらく歩いていくと、いままでは見えなかったさんたんたる荒れた焼けあとが、目の前に見えてきた。目にうつるのは、焼けトタン、割れたかわらだけである。あちらこちらに、赤さびたトタンのバラックが見えて、空襲のはげしかったさまを物語っている。

 思い出多い百反坂も、いまは焼けあとと疎開あとで、見るかげもない。やがて、なつかしい母校についた。だが、ぼくたちの目にうつったのは、昨年八月にわかれたときの三木校のすがたではなかった。校舎はあとかたもなく、ただ焼けはてたあとに、講堂と便所だけが、もとの姿のままで、ポツンと残っており、疎開前の思い出が頭の中をめぐって、いっそうさびしさがわいてきた。……」

(「疎開地から帰って」三木国民学校六年山口三喜雄  久米井束著前掲書)


第152図 空襲で防火壁だけ焼け残った宮前小学校(「わたしたちの宮前」)


第153図 休む暇なくもんぺ姿で焼けあとの整理(「わたしたちの宮前」前掲)

 そして、自分の家も「まわりがあまり焼野原なので、家がどこにあるのか、けんとうがつきませんでした」(「集団疎開を終って」鈴ケ森国民学校四年往岸輝子前掲書)というありさまだった。ようやく、探しあてた自分の家も、小さなせまいバラック小屋になっているのをみて、ただびっくりするばかりだった。

 そして、バラックの生活は、たとえば、

 

 六じょうのへやは、土の上にじかに板を並べ、その上にたたみを並べただけですので、夏でもじめじめしています。ときには「きのこ」がはえてくることもあります。……

 台所はありません。食事は全部外で作るのです。ガスもありません。やけあとから、レンガや石をひろい集め、かまどを作り、やけぼっくい(やけこげた柱など)をもやすのです。………

 ふろ屋さんも、一軒のこらずやけていました。それで、ドラムかんを、近所の人がさがしてきて作ったのです。……

  (「バラックの中で」宮前小学校PTA創立45周年記念誌編集委員会『わたしたちの宮前』)

 それでも、両親が、子供が無事であれば幸いだった。戦災で肉親を失った子供たちも少なくなかった。かれらの苦しい生活は、その日からはじまったのである。大の大人でもその日その日を食べてゆくのが精いっぱいだった当時、まして、両親を失った子供たちの悲惨さは、周りの人々の涙をさそわずにはおかなかった。

 疎開から帰った子供たちは、

 

 やけ野原になったまわりを見て肩をよせあい、うずくまってしまいました。おかあさんたちが、むかえにきました。そして、

 「京子ちゃんッ」

 「武ちゃん」

 「まさ子ちゃん」

と、むちゅうで子供をさがしています。そして、

 「元気だったの……」

 「生きていてよかったわね……」

などと、泣き顔で子供をだきしめ……。子どもたちも、おかあさんや、おとうさんの体に顔をうずめて泣いています。

 「ぼくんちのおかあさんは、どうしたんだろう。どうしてむかえに来てくれないのかなあ。」

 まさよし君は、心配そうに、きょろきょろさがしています。そのとき、

 「まさよし。ここだよ、ここだよ」

という声がしました。……

 「おばあちゃん」

と、さけびながら、かけよって行きました。「おかあさんは、どうしたの? どうして、むかえにきてくれないの? おとうさんは?」

 「…………」

(宮前小学校PTA創立45周年記念誌編集委員会前掲書)

 働き手の一家の柱を、戦死や戦災でなくした母子家庭もひどい生活苦の連続だった。戦争未亡人の大量発生は、やがて、失対労務者や、生活保護の問題の一つの大きな原因となった。戦争が残した深い爪痕だった。

 日の丸の旗と、ばんざいの歓呼の声で送られた東海道線・品鶴線を、時には無蓋車にすしずめになった丸腰の栄養不良の復員兵士たちをのせた列車が何台も何台も続いた。徴用から解かれた人たちも加わって、失業者があふれていた。

 戦争が、区民にもたらしたものは、さらに、生活難・食糧難だった。すさまじいインフレーションで、ヤミ値は敗戦後数年間、天井知らずのうなぎのぼり状態が続いた。区民の大多数は、その期間、食うものさえろくにない飢餓のどん底に追いこまれた。

 ジープという変わった自動車に乗り、しきりと口を動かしてガムをかんでいるアメリカ兵たちがやってきた。アメリカ兵がチューインガムを道路にばらまくと子供たちが群がった。なかにはおとなも、みえも外聞も忘れてその中にまじっている光景がみられた。

 品川・荏原の区役所にもアメリカ軍の将校が視察にやってきた。かれらは、当初「民主化」を占領政策の中心にしていた。たとえば、品川の〝学校の教師に旧日本軍籍にあった者が何人いるか〟〝学校の奉安殿を無くせ〟〝国旗掲揚台もかたずけろ〟と、教育の「民主化」政策をこまかく命令し、実行させた(品川区役所「昭和二十三年連合軍教育指令綴」)。

 だが、焼土からの復興はなみたいていのものではなかった。たとえば、敗戦後、焼けてしまった宮前小学校を東京都は当初再建しないという方針だった。父兄代表が区役所で区長と交渉の結果、材木など資材を父兄自身の手で用意できるなら、都に相談してもよいということになった。しかし材木は戦時中の乱伐と復興需要でほとんど手にいれることができない状況だった。父兄たちは、昭和二十一年の春から手分けして、子供たちの疎開していた富山県東谷村を皮切りに、埼玉県東松山、千葉県と方々、つてを頼りにさんざん苦労して探しまわったあげく、栃木県鹿沼市の製材所からようやくわけてもらうことができた。建築資金も二〇万円を父兄の寄付で集め、区と都が残りを支出するまでにたどりついた。はじめの材木が、学校についたのは夜中だった。「材木がついたぞ!」の声が、家から家につたえられ、山とつまれた材木を前にして、父兄は「どんな小さな板ぎれも、ぜったい持ち出さないこと」、「順番をきめて、毎晩ねずの番をすること」を決めた。こうして昭和二十二年二月二十二日、二七二坪の宮前小学校は再建されたのである。


第154図 材木が届いていよいよ着工の宮前小学校
(「わたしたちの宮前」前掲)

 品川区・荏原区の復興の道のりも、多かれ少なかれ、こういった苦労の積み重ねだった。

 復興のなかで昭和二十三年品川区と荏原区が合併し、現在の品川区が誕生した。人口の減少で区を再編成する必要から行なわれたものであったが、これが品川区発展の一つの基礎となった。その復興のなかで、品川区政も自治体としての内容をしだいにととのえていった。たとえば区長を区民が直接選挙で選ぶようになったし、区財政の基礎も、戦前は国税や都税の付加税でしかなかったものが、独立税になったのもそのあらわれだった。

 また、「民主化」を下から進める力となった区民の運動、とくにその中心となった労働組合が、日本の歴史上はじめて合法性があたえられ、東京都城南地区の中心地域として、品川区は戦前来の伝統もあって、労働運動の主役の座をしめたのである。