戦争末期に始まった配給物資の減少による食糧難の緩和のために、昭和二十年五月から主食の配給基準が変更された。「産業戦士」とよばれた労働者保護の建て前のために、従来の家庭配給主義が家庭配給と労務特配の二本立てに切替えられ、年齢区分がより細かくなった。その内容は第193表の通りである。
年齢別 | 労務性別 | 35区及び立川市,八王子市 | その他の地区 |
---|---|---|---|
g | g | ||
1~2歳 | なし | 120 | 120 |
3~5歳 | なし | 170 | 170 |
6~10歳 | なし | 280 | 250 |
11~15歳 | なし | 400 | 360 |
16~60歳 | 一般 | 330 | 330 |
同 | 指定職名該当者 | 400 | 400 |
61歳以上 | なし | 300 | 300 |
5カ月以上の妊婦加配 | 50 | 50 |
配給基準量の変更に続いて、昭和二十年七月からは主食配給が一割削減となり、一般庶民の苦しみを倍加させた。大多数の区民の食生活は全く悲惨なものになった。永井荷風は日記に次のように記している。
昭和二〇年九月一六日
近日配給米一人一日分一合七八勺なれば、大豆または玉蜀黍を混ずるに朝夕三度の食となすに足らず、されど此れをさえ口にする事を得るものは猶幸なり。農家へ買出しに行きても麦芋の如き主食物を得ること容易にあらず。国民饑餓の日刻々に迫り来れりと云。
昭和二〇年九月一八日
数日来野菜の食ふべきものなけれど、モロ、鯵、カマス、鯖の配給多く、家々手製の枯魚を軒に下げたり。隣人と語るに、其家にては妻子四人、昼には米飯の代りに小麦粉のボッタラ焼、惣菜に小肴の煮付四五匹、夕食に初めて大豆入半搗米二椀を食うと云う。児輩が憔悴の状以って知るべし。
この日記からも明らかなように、配給量だけの生活では餓死することが、〝国民の常識〟となりつつあった。昭和二十年十月ころから栄養失調による死亡者がではじめ、十一月一日の新聞に「ヤミを食わない」犠牲者として、東京高等学校の一教授の死亡が報道された。彼は「国家のやり方がわからなくなってきた。限られた収入とこの食糧配給では、今日の生活はやっていけそうもない」と日記に記していた。それが、配給量だけの食事では餓死することを自分自身をもって現実に証明したのである。