食糧不足は昭和二十年後半から二十一年にかけて急激に悪化し、敗戦の混乱の中で全国民を「塗炭の苦しみ」におとしいれた。
とくに、東京都では二十年十月に平均〇・五日の遅配を生じたが、産地の各県に米の出荷を懇請し、入荷が改善されたのでひとまず危機を解消できた。しかし二十一年二月から再び遅配が生じ、三月には手持米が七日分から五日分に減ってしまった。
このような遅配・欠配の深刻化にともなって、輸入食糧がアメリカ軍手持の余剰食糧とともに放出された。ベーコン・肉・野菜・果汁のカン詰が配給されたほか、昭和二十一年二月からは小麦粉のコッペパンが都民一人あたり二個ずつ配給された。これが都における輸入食糧のはじまりであったが、こうした対策にもかかわらず、四月には食糧危機は一層深刻となり平均遅配が七日にもおよんだ。
食糧危機は四月から五月、六月にかけて日を追ってますますひどくなった。五月二十八日に一人あたり〇・八キロの小麦と白米の混合配給があってから、六月八日まで欠配が続いた。九日にようやく一人一キロで五日分の配給があり、一息ついた形となったが、都内平均では十八日間の欠配であった。
昭和二十一年五月十四~十六日の三日間、東京都教育局が学童を対象に食糧調査を行なった結果によれば、次の通りであった。
まったく米飯をたべていない 四二・九%
一食しか米飯をたべていない 四二・五%
二食とも米飯をたべているもの 一二・八%
三食とも米飯をたべているもの 一・八%
まったく米飯を食べないか、一食のみ米飯を食べているだけを合わせると、全体の八五・四%に達するほどであった。
六月ごろには国民の食生活は惨たんたるものとなり、米の飯がなくなり代用食となって、パンが日常食となりはじめた。家族の多かった家庭では、食糧疎開するものも現われ、買出しは日常茶飯時となり、品川・荏原の工場や学校も買出しのための休暇さえ半ば公然ととられていた。
品川区内の教員をしていた高田なほ子が当時の状態を次のように記している。
「当時の学校は悲惨なものだった。軍隊がつかい残したゾーキンや万金丹という薬まで、子どもたちに買わせるという戦争のあとしまつさえ教師の仕事の一つだった。全てを失った子供や教師のまわりはやけただれ、くずれおちたコンクリートの壁。一本のチョークさえない文字どおりの青空教室だった。教科書もない。ノートだってないのだ。おそらく三十二人くらいのクラスだったと思うが、できるだけ風の吹かない、陽あたりのよいところに子どもたちをあつめて、小さなこわれた黒板をたよりに授業をした。ところが子どもたらは全く気力もなく、授業はノレンにうで押しの状態である。あちらこちらでイネムリさえしている。不思議に思われて校医にたづねてみると、「子どもたちのハナの頭をみればわかります。みなマッ黄色だ。これは栄養失調の証拠です。こんな状態では、とてもとても勉強する気力もないですよ」という話だった。
私は子どもたちに、朝食にどんなものを喰べてきたのかということを無記名で書かせてみた。ごはんといってもおそらく芋だらけのものを喰べてきていたのは一クラスで七名だった。キャベツのおつゆ、ただのおゆというのが大部分である。
「僕の家は皆フナになった。おかあちゃんも、おとうちゃんも、僕もおゆばかりを飲んでいる。フナだってたまにはゴハンがたべられるよ」という作文があった。これを読んだわたしは泣かされた。こうした悲惨な状景や丸い瞳の衰えた子供の顔は、いまでもはっきりうかんでくる。」(『ふだん着のままの証言』)