新円切換え

779 ~ 782

大平洋戦争の末期には、戦時統制経済の二本柱である物価統制と配給統制が根底から動揺することによって、日本経済は崩壊の危機に直面した。総力戦体制の長期化によって一方では生産力が低下して日常物資が不足し、他方では戦時公債の乱発によってインフレーションが高進した。インフレーションの進行の度合を、東京卸売物価指数によってみると次の通りすさまじいものであった。

 昭和九~十一年を基準とし、その間の平均を一〇〇とした場合

     昭和十六年      一七五・八

     〃 十七年      一九一・二

     昭和十八年      二〇四・六

     〃 十九年      二三一・九

     〃 二十年一月    二四七・九

     〃    二月    二五三・四

     〃    三月    二六八・八

     〃    四月    三一一・六

     〃    五月    三一六・一

     〃    六月    三一八・三

     〃    七月    三二六・二

     〃    八月    三三六・〇

     〃    九月    三六七・八

     〃    十月    三七七・四

     〃   十一月    四〇五・五

     〃   十二月    六七四・八

     昭和二十一年一月   七九三・六

     〃    二月    八六七・六

     〃    三月  一、一九五・一

     昭和二十一年四月 一、五二五・二         (『東京都統計年鑑』による)

 敗戦後の混乱のなかで、品川・荏原の区民は天井知らずのインフレと食糧危機の激化に苦しめられた。

 当時月給三〇〇円だとヤミの白米に四升五合しか買えなかった(白米一升七〇円前後した)。四人家族で一日一升消費すれば四日と半日分しかなかったわけである。むろん、米だけを主食にすることはできない相談だったから、いもやかぼちゃや豆粕などの代用食で補ったが、それでも月給だけでは、だいたい一週間分しか維持できなかった。

 食糧を手に入れるには、賃金ではその何分の一にしかならなかった。その結果預金の引き出しがはげしくなり、通貨の流通高が急激に膨脹し、日銀券の発行高が二月十八日現在六一八億円と戦後最高を記録した。銀行の貸出しは毎月膨脹し、流出した資金はヤミにむかい、いっそう物価を暴騰させる悪循環をもっていた。このころ日本銀行につとめていたある人の話では「日銀の二階の窓から見ていると、毎日のように紙幣を積んだトラックが門を出ていった」ということである。二十年末から二十一年初頭にかけて社会不安が増大して、銀行の取付け騒ぎが起こりかねない情勢となった。そのため政府は火急の手段として二十一年二月十七日、「日本銀行券預入令」と「金融緊急措置令」を公布した。この二つの勅令は即日施行され、旧紙幣は三月三日限りで流通停止となり、旧紙幣はすべて銀行に預け入れて封鎖された。二月二十五日封鎖された預金は、新紙幣をもって支払われた。その現金支払額は、一ヵ月に世帯主が三〇〇円、世帯員一〇〇円の生活費のほか五〇〇円までで、給料生活者の給与も一人月額五〇〇円以上は封鎖された。封鎖された預貯金については大蔵省から個人金融通帳が出された。


第156図 自分の預金も自由に引出せなかった封鎖預金払戻証


第157図 第一封鎖預金普通預金通帳

 新円切替えの荒療治によって、悪性インフレーションの進行は一時くい止められたが、これ以後給料生活者をはじめとして国民は「五〇〇円の枠」による耐乏生活を強いられた。その後も物価上昇は続き、賃金の名目的上昇はそれに追いつかなかった。実質賃金は昭和二十四年ごろで戦前の昭和九~十一年の時にくらべて四八%にも達しなかった。インフレーション下の耐乏生活のなかで主食の確保のために、食糧緊急措置令が公布されて、農民には強制供出の強権発動が行なわれた。大部分の農家は飯米さえ十分に確保できない実情にあった。