ヤミと買出し

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インフレ対策として、二十一年の新春からは限界価格制度が実施され、ヤミ売り・横流しの厳重取り締まりが行なわれた。しかしヤミはますます横行し、水産物・青果物の生鮮食糧品は正規ルート以上にヤミ市場で公然と取引されるようになった。昭和二十一年半ばの食糧危機を頂点として、日用生活物資のすべてが不足したから、特権を持たない一般庶民は戦争末期以上に、買出しとヤミ物資で不足を補うほかはなかったのである。

 統制機関の在庫品、連合軍から返還された旧軍需物資・隠退蔵物資などの配給ルートに乗らない物資が、ヤミ物資としてどこからともなく流れてきて大井町駅・五反田駅前はじめ青空市場・ヤミ市場ができた。配給が極端に不足した二十一年~二十二年にかけて区民はこのヤミ物資に頼らないでは生きていくことができなかった。五〇〇円生活の区民にとって、ヤミ市は異常な高値と粗悪品で「今の闇市は買う所ではない、見る所である」とさえいわれた。配給で一升五三銭の米がヤミ市では七〇円もしていた。一三二倍もしたわけである。砂糖は二六七倍だった。それでも現物がありさえすれば飛ぶように売れた。

第194表 ヤミ市場の値段(昭和20年10月)
品名 数量 価格 基準価格
円 銭 円 銭
白米 1升 70.00 0.53
みそ 1貫目 40.00 2.00
しょう油 2リットル 60.00 1.32
砂糖 l貫目 1,000.00 3.79
1貫目 40.00 2.00
ナタネ油 1斗 2,000.00 26.80
牛肉 100匁 22.00 3.00
鶏卵 100匁 21.00 1.82
生サバ 100匁 20.00 0.34
煮干し 100匁 23.00 1.13
さつまいも 1貫目 50.00 1.20
大根 1貫目 3.00 0.06
ごぼう 1貫目 10.00 1.70
りんご 100匁 13.00 0.36
煎茶 100匁 20.00 3.30
ふかしいも 100匁 10.00 0.08
水あめ 1貫目 10.00 3.40
清酒2級 1升 350.00 8.00
ビール 大びん1本 20.00 2.85

(警視庁経済第3課調べ)

 しかしヤミ市場でほしいものが買えた人人は恵まれていた。戦後の公定価格は二十一年春の三・三%物価体系、二十二年夏の七・七%体系、二十三年六月の補正体系と三回変更し制定された。その価格体系の基礎となった賃金ベースは、二十一年の五〇〇円の枠、二十二年の一、八〇〇円、二十三年の三、六〇〇円であった。敗戦直後は食うだけの生活も、賃金だけでは不可能であった。生活を維持するため〝ヤミ屋〟〝担ぎ屋〟になる人が多かった。男が七〇〇円、女が三〇〇円くらいの月給のとき、担ぎ屋をやれば一日で一、五〇〇円くらいのもうけはあったといわれている。

 一般区民も、担ぎ屋も満員の電車で近郊農村に買出しにでかけた。

 敗戦後の食糧不足とともにほとんどの区民が買出しを体験した。毎日の食物を確保するために休暇をとるものが多くなり、会社によっては買出し休暇を認めるところもあった。勤務先が交通関係だと買出しバスを仕立てたり、なかには消防車を使った買出し事件さえ起こったこともあった。買出し列車と呼ばれる満員のすし詰電車に揺られて、目的地に着いてからも大変だった。

 農民は長い間、都市住民に対する反感を根強くもっていたし、強制供出のうらみをアメリカ占領軍や国家権力よりもむしろ都市居住者に向けていた。しかも、農民の大部分はヤミでもうけたとしても知れたものであった。少々の現金では食糧、とくに米を手に入れることは困難であった。だから、区内の給料生活者は、長い間営々としてたくわえて戦火をまぬがれたよそゆきの絹織物・銘仙の着物からはじまって、タンスの中が空っぽになるまで、飢死から逃れるために一枚一枚着物を食糧に換えていった。逆に、農民は、これまで、めったに着ることも、もってもいなかった絹の着物をもつ機会にめぐまれた。

 しかも、必死の思いで買った米も、ヤミ行為として駅や列車内で警察官にもっていかれるかもしれない関門があった。

 しかし、実は警視庁の役人、警察官さえ〝買い出し休暇〟が、昭和二十一年六月、認められたほどだった。

 とりわけ戦災者・外地引揚者・軍人遺族・在外留守家族・傷い軍人・孤児など戦争で不幸な境遇におかれた人々の生活は、もっとも悲惨だった。生活困窮者に対しては「救護法」、昭和二十一年十月からは「生活保護法」で生活扶助料が支給されたが、昭和二十二年、品川区で一、一〇七世帯、荏原区で七一〇世帯が生活扶助を受けていた(第195表)。ところが、扶助費はもともと最低限の生活さえおぼつかない金額であった上に、当時のはげしいインフレーションで食料などのヤミ価格が高騰するため、一ヵ月の扶助費で食費の五日分しか買えないというありさまだった。むろん、扶助料もあいついで引き上げられたが、物価の上がり方のほうが早いため、戦後数年間はたえず、こういった状態が続いた。

第195表 生活困窮世帯と人口

昭和22年

区分 品川 荏原
事由別 世帯 人員 世帯 人員 世帯 人員
戦災者 14,959 45,788 11,748 40,115 26,707 85,903
外地引揚者 1,751 3,747 786 1,778 2,537 5,525
要保護者 1,779 5,772 978 2,838 2,575 8,610
生活扶助を受くる者 1,107 3,400 710 2,310 1,817 5,710

 


ソ連地区からの引き揚げ 昭和24年品川駅
(『目でみる東京百年』より)

 生活保護をうけていた人のなかで、荏原の場合一ばん多いのが戦災者、その次が軍人遺族、在外留守家族、外地引揚者だった(第196表)。そのなかでも特に苦しい立場にあったのが未亡人世帯だった。夫の戦死・未帰還・引揚中の死別・離別などで、一家の柱を失った未亡人世帯の大量出現は、ずっと後までも区民生活に残した戦争の深いきず跡だった。遺族のなかでも未亡人世帯の収入は昭和二十一年六月、一二〇円強だった。これは一般遺族の三分の一、一般世帯の五分の一という低いものだった(これも、一般世帯を六〇〇円とした場合であって、いちおう生活が成り立つ水準を一、二〇〇円だったとすると十分の一)。未亡人たちはなりふりなどかまっていられないどん底の中から、内職を探し失業対策事業を求めて職業安定所の窓口に並び、またはかつぎ屋になった。失業対策事業も本格化したのは昭和二十四年以降だったから、もっとも苦しい時期の昭和二十年から二十三年にかけては、授産場で内職しても焼け石に水だった。女手一つで子供に食を与えることは、なみたいていではなかった。バーやキャバレーのホステス、はては占領軍相手の慰安婦・街娼にまで身を落した未亡人も多かった。警視庁は占領軍の進駐をまえにして、一般婦女子を守るための「肉体の防波堤」だといって勧業銀行から三〇〇万円の特別融資をうけて、大森海岸の料亭小町園に「特殊慰安施設協会」(RAA)をつくらせ、慰安婦を集めた。東京に二五ヵ所、このような特殊慰安施設がつくられ、慰安婦は一、六〇〇人を数えた。ところが進駐軍は二十一年一月公娼廃止令をだし、三月特殊慰安施設の閉鎖を命じたので、街娼が急にふえ、品川の盛り場でも、かなりの数の女性が街角に立つようになった。

第196表 品川区役所荏原庁要保護者調

昭和23年1月末現在

区分 総人口 被保護者
事由別 世帯 人員 世帯 人員
戦災者 12,120 41,128 222 618
外地引揚者 910 2,117 43 139
海外復員軍人軍属 2,972 5,528 6 10
軍人遺族 860 5,283 57 174
在外留守家族 950 6,262 47 134
傷痍軍人 59 176 9 10
離職者 458 1,269 46 138
その他 4,414 22,568 183 390
22,743 85,260 613 1,613

 

 また、暗い世相を反映して犯罪は急増した。やっとの思いで買い出しにいってかついできたリュックサックを駅のホームにおろして、ちょっと油断するとたちまちぬすまれてしまった。復員軍人や外地からの引揚者の荷物をとられたという話がしばしば聞かれた。食べ物のことで殺人事件までも起きた。人々の心は、すさび切っていたのである。