ヤミ市、買い出しは二十一年をピークに二十二~三年ころまでが隆盛で、経済の復興とともに次第に減少した。しかし経済復興といっても飢餓状況からの脱却にすぎず、区民の生活困難は相変わらず続いた。
昭和二十二年六月片山内閣が成立し、経済危機突破緊急対策要綱が発表され、傾斜生産の強化による生産復興が開始された。七月一日、同十九日には食糧の確保のために、第一次・第二次食糧緊急対策が発表された。その骨子は飲食業緊急措置令の公布により、外食券食堂・旅館・喫茶店を除く料理飲食店を全国一斉に六ヵ月間休業させ、一方では農林省に食糧緊急対策本部を設け、計画的に一定日数を欠配させて配給の円滑化をはかった。しかし当初のもくろみとはうらはらに、裏口営業が拡がり、かえってヤミ米への依存を強める結果となった。
七月四日には経済安定本部の作成になる最初の経済白書・第一次経済実相報告書が、翌五日には<新物価体系の確立>が発表され、一、八〇〇円を暫定業種別賃金とする新物価体系<一、八〇〇円ベース>が決定された。一、八〇〇円ベース、二十三年四月決定の二、九二〇円ベース、すぐに引上げられた三、七九一円ベースといずれもが、<三・三物価体系>よりもいっそう露骨に資本家的復興をめざした物価統制であり、国民の生活を犠牲にしたものであった。しかし三、七九一円ベースに基づく物価改訂により公定価格とヤミ値とのひらきがせばまったことは一つの収穫であった。日銀の調査によると敗戦時の二十年九月におけるヤミ値は公定価格の約三〇倍であったが、二十四年六月にはヤミ値平均は公定価格のほぼ二・五倍に縮小した。二十三年半ばごろには一部過剰物資の出回り、金づまり、購買力の減退などが原因となってヤミ値は横ばい状態となり、公割れの物品もあらわれるようになった。
このため二十三年八月、需給が均衡した物資の第一次統制解除が行なわれ、二十四年には経済安定九原則が強行され、物価政策が転換された。二十四年度の超均衡予算の成立を契機に、これまでインフレ経済がディスインフレとなり、デフレ的傾向を見せはじめた。物価は二十四年五月以降朝鮮戦争の直前まで凋落の一途をたどり、価格の安定とともに自由価格に切りかえられていった。