経済の復興とともに配給統制も次第に解除され、物資がかなり自由に出回るようになった。昭和二十三年度産米の豊作による新米入荷の好調と、いも類の増産によって、二月一日から主食の配給量が改訂され、二合七勺の配給となった。野菜と魚類をはじめとする生鮮食料品については統制解除がすすみ、二十三年十月には果物類、十二月にはつけもの類、二十四年四月には蔬菜・水産物と次々に統制が解除された。
調味料のうち味噌・醤油は二十四年以降、アメリカから大豆・コールミールが輸入されたため、品質の改善と生産量の確保が可能となり、安定した配給ができるようになった。食用油は二十一年当時ラード・ヤシ油・落花生油などによって、やっと月二〇グラムの配給を維持するにすぎず、二十三年にマーガリンと液体油をあわせて六〇グラムの戦前の水準に回復した。菜種の増産により二十四年ごろから食用油の供給が改善され、二十五年十月統制が解除された砂糖についても二十三年末から家庭配給が復活し、一人月〇・五斤(三百グラム)の配給が実施された。二十四年四月ころまではキューバ糖を赤い粗糖のまま配給したが、五月ごろから台湾糖が輸入されるようになり、国内製糖工業の復旧にともない精製三盆白が配給されるようになった。二十六年十月に業務用が、二十七年三月には砂糖の統制が全面的に解除された。
牛乳製品は需給事情が最悪であった。二十一年ころに連合軍の放出乳製品のほか、粉乳・調製粉乳・練乳で乳児用の配給をかろうじてまかなえる程度であった。二十三年一月に、これまでの統制機関を解散して、食糧品配給公団を新たに設立し、商店への集荷と配給業務を担当した。二十四年ころから占領軍の放出飼料による乳牛の飼育改善が行なわれ、必要量の確保が可能となり、二十五年三月に配給統制が撤廃された。
衣料・家庭用燃料などの日常生活物資についても、二十二、三年ごろから順次統制が解除された。二十二年の臨時物資需給調整法の制定により、従来の各物資統制機関が解体されたのち、新たに配給公団が設立され、生産・集荷・配給のすべてが政府の責任で実施されることになり、生産が復興されると統制は解除された。家庭用燃料の木炭は、食糧と並んで極度に窮迫し、二十二年における薪炭の配給は一世帯あたり年間平均四・四俵と、所要量の四四%にすぎなかった。種々の対策が試行されるなかで、二十三年からは需給事情が好転した。それとともに配給制度の民主化が叫ばれ、二十三年八月に薪炭需給調整規則が制定され、従来の統制機関はすべて廃止された。二十四年には所要量の七五%を確保できるようになり、それと同時に石炭の増産、電気・ガス施設の復興がすすんだ。二十四年八月にはマキが、二十五年三月には木炭の統制が廃止された。
戦災復旧のための住宅建設に最も必要な木材についても、割当配給が行なわれていた。生産の減退と輸送の不円滑により需給が極度に悪化し、二十二年五月の臨時建築制限規則にもとづく臨時建築制限令が施行された。
昭和二十二年十月からは家庭用微量木材の取扱要綱によって、区役所を通じて木材の配給が行なわれ、二十三、四年と続いた。二十三年ころから次第に木材の需給事情も改善され、四月に臨時物資需給調整法にもとづく木製材登録規則によって、木材・製材業者が登録され、二十五年一月に統制が全面的に撤廃された。
昭和二十五年ころになると、主食類など一部を除いたほとんどの物資が統制解除となり、自由経済となった。