朝鮮戦争と区民生活

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敗戦後の飢餓状態と異常なインフレから脱却し、日本経済の復興にとって最大の契機となったのが朝鮮戦争であった。動乱ブームで、区内の各工場は、一せいに活気をとりもどした。大井や五反田の繁華街に、ネオンが目立つようになり、道行く人の服装もようやくこざっぱりしたものになってきたのもこの頃だった。

 昭和二十五年から二十六年にかけて、生産財価格が約二倍に、また、消費材価格が三割程度上昇し、国内物価が著しく騰貴した。これは供給力が十分回復しないうちに、特需を中心とした輸出需要が急増し、国内物価の騰貴を招いたからであった。朝鮮戦争の影響で一たん上昇した卸売物価も、戦争の終結と戦前水準を上まわる鉱工業生産の上昇によって落ち着き、これ以後、景気変動による僅かなぶれはあったがほぼ安定した。

 卸売物価に比べて相対的に上昇の遅れた消費者物価は、昭和二十八年の消費景気による衣料品・繊維品などの上昇と、電気・ガス・運賃などの公共料金の統制価格撤廃にともなう調整的上昇が重なりあって高進した。

 昭和二十八年度の消費景気には三つの特徴があった。第一は、戦後はじめて農村の消費水準の伸びを都市のそれが上回り、これ以降、アメリカ型といわれる都市化現象が区民生活に浸透していったことである。第二は「勤倹貯蓄」で消費を押えられていた反動ともからんで、この頃から所得の増加に比例して貯蓄額がその割合には大きくならなかったこと、第三は支出のうち輸入物資に向う割合がふえたことである。

 この消費景気のあおりを受けて、昭和二十八年度には一人あたり所得と消費水準が戦前水準を越えた。これまでぜい沢品と考えられていた肉・卵・牛乳および乳製品・タバコ・ビール等の一人あたり消費高が戦前戦後を通じて最高となった。しかし、昭和二十七、八年の主な消費内容は、戦中・戦後の消耗した衣服類と家具類の補給が中心であり、まだまだ本格的な意味での生活水準の上昇ではなかった。昭和二十八、九年を境として、一部の階層から始まった耐久消費財への購買意欲が全般的な傾向となりつつあったが、区民全体のものになるのには、昭和三十年代を待たねばならなかった。

 昭和二十七年から三十年のいわゆる「神武景気」の間に賃金は消費者物価指数を上まわり、実質賃金が上昇し、昭和二十八年ごろ戦前水準に到達した。このような状態を昭和三十一年版の経済白書は「もはや戦後ではない」と規定し、戦後の日本経済の成長を手放しで賞讃した。敗戦直後の絶対的窮乏化から脱却し、昭和三十年代には高度経済成長が展開されたのである。