昭和二十二年度決算についてみると、歳入総額四、三三〇万円のうち、区税収入は一、三四八万円と三一パーセントにすぎず、都からの交付金二、九一八万円が六六パーセントを占め、区財政の中心となっていた。このため、特別区は成立したが自主財源は欠如するという地方自治法と地方自治の矛盾に対して、二三区の不満が集中した。ここに、二十三年から二十四年にかけて、自主財政の確立を目指す自治権拡充運動が展開されねばならなかった一つの根拠があったのである。
歳出についても、歳出合計四、〇七三万円のうち、区役所費が二、三一八万円と五七%も占め、教育費の七八五万円の一九%と合わせると、七六%となり、その大半は区役所職員と小中学校教員の給料にあてられていた。これからも分るように、区独自の事業といえるものはほとんどなく、臨時部歳入の交付金五七二万円のうち、旧庁舎復旧費が四四六万円と約八割に及び、歳入全体でも一一%に達していた。このように昭和二十二年度の財政はインフレの激化するなかで、給料支払の節減・遅延・繰延べなどのやりくりによって、かろうじて赤字をまぬがれたのであった。
翌二十三年度の財政もインフレの激化のなかで前年同様に苦しい状態が続いた。賃金ベースの数回にわたる増改訂と諸物価の上昇によって所要経費が急激に膨脹したからである。歳出入とも一挙に三・五倍に膨脹し、一億五、一二〇万円と一億四、五五五万円と一億円の大台にのったのをはじめとして、主要財源も区税が八、五二二万円と歳入全体の五六%に達し、都支出金の六、〇八一万円(四〇%)を上回った。また、歳出面でも教育費が六、八〇五万円(四七%)と区役所費の六、三〇九万円(四三%)を上回った。すなわち、六三制の発足による六三制整備費がその大半を占めていたが、土木費は一五万円にすぎず、区が独自の財源を確保して独自の事業を行なうまでには、ほど遠い状態におかれていた。昭和二十四年度も当初は前年度に引き続いて、インフレーションによる影響のため、人件費や物件費は膨脹したが、やがて、ドッジラインによるインフレーションの収束が急速に行なわれた。