昭和二十六年以降の第三期からは税制改革による財源確保によって、区税収入が六〇%の線が堅持されるようになった。こうして第三期に入ると、区税収入が安定したことによって、区財政の基礎が確立され、戦後の混乱からは脱却して発展と安定の時期を迎えたといえる。
朝鮮戦争以後の日本経済の発展とともに、住民所得の増加、人口の増加によって、区税収入は増大の一途をたどり、品川区の財政は二十六年以降膨脹し続けた。区財政の歳入のうち、区税収入と並んでもう一本の柱であった都支出金は、昭和二十二年度に六六パーセントを占めた時期からみると、はるかに比重は小さくなり、昭和二十五年以降は、二〇パーセント前後で相対的には漸減の傾向を示した。
それではこのように急膨張を遂げた区財政が何に使われたか。歳出の内訳についてみていくと、戦前の行政区時代と同様、区の歳出の中心は教育費だった。毎年四〇%以上占めており、二十五年度から三年間三〇%台に低下した以外は、二十八年度から急膨脹をとげ、三十六年度まで、五〇%前後を占めている。六三制による小中学校の運営費であり、二十年代後半から三十年代にかけての経費増大は、小中学校の増改築によるものであった。
とくに、「民主化」政策の重要な一環として、教育が重視されたことも背景にあって、戦災をうけた小学校の校舎建築が焦眉の急として要請された。当初は、資材不足と急場しのぎから、父兄の自主的・積極的な活動もあって、木造のむしろバラック建といった方が正しいと思われる校舎が建設された。旧品川区は被災三割程度だったのに対して、旧荏原区は九割方が被災したため、校舎建築・改造は、旧荏原区中心に進められたのが一つの特徴だった。
戦災による校舎の焼失によって、全児童を同時に収容する教室が足りないため、児童を午前中のクラス、午後のクラスにおける二部授業、なかにはさらに三部授業を行なう学校さえ生じた。たとえば区立小山小学校では昭和二十三年四月、二十一学級に対して教室は十七学級分しかないため、一年生から四年生までは全部二部授業で、児童たちは、早番、遅番にわかれて登校するありさまだった。
昭和二十四年でも品川地区の一九の小学校の三二五学級のうち二部授業が一七五学級に達した。そのうち大井第一小などは六学級も三部授業を実施していた (第199表参照)。
区分 | 学級数 | 二部授業学級(再握) | 教員 | 児童 | |||||||||||
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校名 | 総数 | 男 | 女 | 総数 | 男 | 女 | |||||||||
三部6 | ※7 | ※6 | ※1 | ※196 | ※90 | ※106 | |||||||||
総数 | 325 | 175 | 395 | 195 | 200 | 16,475 | 8,208 | 8,267 | |||||||
品川 | 21 | 8 | 25 | 11 | 14 | 1,198 | 582 | 616 | |||||||
城南 | 16 | - | 20 | 9 | 11 | 747 | 379 | 368 | |||||||
浅間台 | 25 | 18 | 28 | 14 | 14 | 1,431 | 711 | 720 | |||||||
三木 | 23 | 16 | 28 | 15 | 13 | 1,165 | 588 | 577 | |||||||
御殿山 | 12 | 4 | 13 | 8 | 5 | 478 | 261 | 217 | |||||||
城南第二 | 22 | - | 30 | 12 | 18 | 1,245 | 618 | 627 | |||||||
第二日野 | 12 | 11 | 16 | 7 | 9 | ※1 | 416 | ※1 | 242 | 254 | |||||
第一日野 | 14 | 8 | 18 | 10 | 8 | 709 | 337 | 372 | |||||||
芳水 | 15 | 6 | 20 | 9 | 11 | 725 | 396 | 327 | |||||||
第三日野 | 14 | 8 | 18 | 9 | 9 | 703 | 334 | 369 | |||||||
第四日野 | 15 | 13 | 17 | 10 | 7 | ※1 | 604 | 302 | ※1 | 302 | |||||
大井第一 | 18 | 三部6 | 12 | 23 | 11 | 12 | 974 | 487 | 487 | ||||||
鮫浜 | 18 | 15 | 21 | 11 | 10 | ※1 | 905 | 428 | ※1 | 477 | |||||
山中 | 19 | 19 | 24 | 11 | 13 | ※2 | 1,059 | 543 | ※2 | 516 | |||||
原 | 17 | 12 | 22 | 13 | 9 | 826 | 406 | 420 | |||||||
立会 | 18 | 15 | 25 | 12 | 13 | 1,027 | 493 | 534 | |||||||
浜川 | 24 | 10 | 29 | 13 | 16 | 1,412 | 712 | 700 | |||||||
伊藤 | 16 | - | 18 | 10 | 8 | 771 | 389 | 382 | |||||||
朝鮮第七 | 6 | - | ※7 | ※6 | ※1 | ※191 | ※89 | ※102 |
※印は外国人にして外数.
昭和24年度「教育統計速報(品川地区)」品川区役所区民第一課統計係
しかも、その校舎も、戦災のひどかった旧荏原地区では、ほとんどがバラック(仮建築)で区立旗台小学校の屋根なども薄い木片をうちつけただけの「トントン葺」だった。長雨や風雨の強い折には、教室に雨漏りがひどく、授業も途中で休まなければならなかった(昭和二十四年六月八日東京都品川区立旗台小学校父母と先生の会会長山田安村ほか「陳情書」)。戦災をうけなかった旧品川区地域の小学校でも老朽した校舎の雨もりは、同様だった。老朽のひどい城南小学校は丸太棒でつっかい棒をしなければ、危険な状態だった。芳水小学校では、「空襲の被害喰止策」として天井を撤去したままだったので、隣りの部屋の話し声や雑音がつつぬけで、授業ができないと訴えている(昭和二十三年九月二日東京都品川区立芳水小学校父兄代表松原伝吉ほか「請願書」)。
六・三制で二年制の高等小学校から三年制になった新制中学校も校舎不足、施設不足は、小学校にまけないほどひどかった。昭和二十二年五月発足した区立荏原第一中学校などは、校舎が全くなくて後地小学校の一隅を借りて授業を開始した。職員室を教室にし、階段上の踊り場に臨時に部屋をつくって、そこを職員室に利用したが、教室への生徒の出入は仮職員室内を通るしかない。しかも、水道栓も一つしかないという窮状だった(東京都品川区立荏原第一中学校後援会会長平林嘉国ほか「陳情書」)。
昭和二十四年でも品川地区の中学校一一の公・私立の学校一五〇学級のうち一二学級が二部授業を行なっていた。(第200表)。
区分 | 学級数 | 二部授業学級(再掲) | 教員数 | 生徒数 | |||||||||
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校名 | 総数 | 男 | 女 | 総数 | 男 | 女 | |||||||
総数 | 150 | 特3 | 12 | 250 | 163 | 87 | 特63 | 9,094 | 特33 | 4,533 | 特30 | 4,561 | |
公立 | 総数 | 106 | 特3 | 12 | 158 | 122 | 36 | 特63 | 5,103 | 特33 | 2,933 | 特30 | 2,170 |
東海 | 23 | - | 35 | 30 | 5 | 1,143 | 706 | 437 | |||||
城南 | 9 | - | 14 | 9 | 5 | 480 | 282 | 198 | |||||
大崎 | 22 | 特3 | 12 | 29 | 21 | 8 | 特60 | 920 | 特30 | 505 | 特30 | 415 | |
日野 | 12 | - | 19 | 14 | 5 | 554 | 272 | 262 | |||||
浜川 | 25 | - | 38 | 29 | 9 | 1,234 | 745 | 489 | |||||
伊藤 | 15 | - | 23 | 19 | 4 | ※3 | 772 | ※3 | 403 | 369 | |||
私立 | 総数 | 44 | - | 92 | 41 | 51 | 3,991 | 1,600 | 2,391 | ||||
大井 | 9 | - | 26 | 14 | 12 | 509 | - | 509 | |||||
品川 | 9 | - | 27 | 15 | 12 | 988 | 450 | 538 | |||||
町田学園女子中学部 | 3 | - | 8 | 7 | 1 | 31 | - | 31 | |||||
立正 | 12 | - | 6 | 5 | 1 | 1,279 | 600 | 679 | |||||
攻玉社 | 11 | - | 25 | - | 25 | 1,184 | 550 | 634 |
(原注) ※印は外国人,特は特殊学級及生徒数にしていずれも外数なり
経済が復興し、区財政もともかく安定してくると、こうしたバラックを本建築、鉄筋に建て直すことが区財政の課題となった。後の昭和三十五年ころまでは、この課題が区財政の主な仕事となったのである。
教育費の次に大きな比率を占めているのは、区役所を運営していく一般的費用をいう区役所費である。昭和二十二年度から二十四年度までは四〇%から五〇%を占めて、教育費と同等の位置にあったが、二十五年度に急激に減少してから二十七年度までは増加傾向にあった。二十八年以降、金額的には少しづつ増加しているが、比率は二・八%とほとんど変らない。全体に占める比率は二・五%にしか過ぎないが、似たような性格の議会費が区役所費と同傾向にある。
その他、歳出のうちで重要なものとして、土木費がある。比率としては全体の一割にもみたなかったが、前年度と比べて昭和二十五年度には約五倍、二十六年度には二倍の伸びを示した。以後、金額的には漸増しているが、比率は一〇%にもみたず、三十五年度に一〇%の線を突破してから飛躍的な伸びをみせ、区による道路・河川改修工事がどんどん進められたことを示している。