区財政の問題点

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区財政はシャウプ勧告による税制の改正以後、自主財源を確保して昭和二十五年からは一応の安定をみせた。しかし、昭和二十七年には戦後の地方自治法の改革によって獲得した区長の公選制が、地方自治法の改正によって廃止され、区の自治権は大幅に削減され、一歩後退した。

 これ以降、二三区は一体となって自治権拡充運動を強力に推進し、昭和三十九年には地方自治法の一部改正により、特別区への大幅な事務移管が実現した。自治権拡充問題は区財政にも関係してくるが、その原因は日本の地方自治制度が都道府県と市区町村の二重の地方団体で構成されていることにある。この二重行政から生ずる地方公共団体としての特別区の自主性・自治権要求が自治権拡充運動であり、財政調整制度をめぐる都と区の対立もその一環としてであった。

 国が地方に交付する地方交付税は、シャウプ勧告以前は地方配付税とよばれ、東京都では都から区に配付した特別区配付税があった。この配付税を含めた都からの交付金が、シャウプ勧告が実施される昭和二十五年以前は、区財政の中核を占め、品川区の場合、昭和二十二年以降、六六%、四〇%、三二%の比率を占めていた。

 シャウプ勧告以後の平衡交付金制度は東京の場合、各区の財政をあん分し調整するために、税収が基準的行政経費(財政需要額)を超過する富裕区からは納付金をとり、不足を生じる区へは交付金を出して不均衡の是正を計る方式であった。この都区財政調整制度は昭和二十五年度からはじまったが、これが設置された理由は、各区の財政収入と財政需要が二三区間で不均衡であったからである。区財政歳入の中心を占める区民税のうち、法人分については二十六年から都に移され、そのうえ区民税の特別徴収として源泉徴収制が二十六年から実施されることになった。

 税制の改正により、都心部や人口増加率の低いところは納税人員が少ないため、区民税収入が少ないし、また、下町で中小企業や自営業の多い所は、これらの階層の区民税の把握率・納税率がサラリーマンや労働者にくらべてずっと低いため、税収の増加が思うようにいかなかった。これに対して、大企業労働者やサラリーマンの多勢住んでいる区では、納税の能率がよく、把握率もよく特別徴収の割合も大きく、税収はぐんと伸びていった。

 こうして、昭和二十五年には都が特別区全体を対象として行なう行政の財源として、二三区から一八億三、五〇〇万円の納付金を微収し、特別区特別納付金の品川区負担分は、七、八〇〇万円であった。この場合、都は区の財政需要は区税収入をはるかに下回るものとして、余分のものは都に吸いあげるという考えで、調整金条例をもうけて、都区の財政調整を行なうという構想であった。区側はこの都案に対して、区の財政自主権を無視した暴案として反対したが、各区の財政計画における財政需要を、どのように客観的に測定するかの問題が残された。

 この解決策として二三区相互間に、一定の資金のプールを設け、各区が一定の基準で金を出し合い、その金を適当に再分配して不均衡の是正を計ることになった。このため、特別区財政調整委員会が設置され、この委員会は各区から一名ずつの委員で構成され、都区財政調整納付金制度が設けられたのである。品川区の場合、下町的要素をもった中小企業の多い地域であるが、同時に、大企業も京浜工業地帯として古くから多数存在した。そのため、特別区民税の徴収状況は、昭和三十年度についてみると、特別徴収金額が三億四、八〇〇万円と、普通徴収金額一億五、四〇〇万円の二倍以上になっている。こうして、昭和二十六年度以降、毎年、金額、歳出に占める比率ともそれほど高くはないが、富裕区として納付金を納めている。このように都区財政調整問題は、昭和四十年の改正自治法の実施に至るまで、自治権拡充問題とからんで、昭和二十年代、三十年代の区財政の重要な問題となったのである。