創価学会

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昭和五年牧口常三郎によって創唱された創価教育学会は、日蓮の理想である三大秘法の広宣流布(こうせんるふ)を目標とし、牧口の唱えた価値論をその指導原理として積極的な布教活動を行ない、昭和十二年には牧口会長・戸田城外(のち城聖と改称)理事長の陣容で本格的な発足をするに至り、その指導のもとに漸次入信者をふやし、昭和十六年には会員数五、〇〇〇人を超え、翌十七年には二五支部の教団に発展した。

 昭和十八年七月には、その教義と活動が治安当局に忌避され、牧口会長・戸田理事長ら学会幹部は治安維持法違反と不敬罪の理由で検挙され、これを契機に会員は減少の一途をたどり、昭和十九年十一月牧口会長は獄中で死去した。

 翌昭和二十年七月、保釈された戸田城聖は、八月の終戦を機に学会再建活動を開始し、名称を創価学会に改めた。戦後の精神的空白状態のなかで入信者は次第に増加し、その特異な布教活動によって、昭和二十六年には約五、〇〇〇世帯の会員を数えるに至った。この年五月に戸田城聖は二代会長に就任した。

 このころの会員は東京周辺に分布していて、これを一二支部に区分して統括していた。都内には築地・蒲田・向島・城東・小岩・足立・中野・杉並・本郷・文京の一〇支部、近県では神奈川県に鶴見支部、埼玉県に志木支部があった。昭和二十七年十二月末には会員数三万二〇〇〇世帯となり、支部が仙台・大阪・八女(やめ)・堺などにもできた。当時の組織形態は、支部の下部機構は地区で、その下に班があり、支部長・地区部長・班長のラインで活動が行なわれた。

 このころの品川区内には創価学会会員が何世帯あって、品川区の地域内でどういう活動をしていたかは明らかでない。それは当時、創価学会はタテ線を呼ぶ組織体制をとり、折伏(しゃくふく)をした者の組織に、その折伏を受けた入信者が加入する建前をとっていたので、品川区内の居住者でも築地支部員あり、蒲田支部員あり、あるいは鶴見支部員ありで、会員が隣同士に住んでいても、支部が異なるとお互いに会員であることが判らないということもあった。この形態は昭和三十二年ごろまで続いた。

 しかし品川区内では、かなり活発な創価学会の活動が行なわれていたことが推察される。それは昭和二十二年に入信した池田大作現会長が大田区の出身で、蒲田支部に所属していたことである。そして当時の池田支部幹事の活躍によって、昭和二十七年二月には蒲田支部はいっきょに二〇〇世帯に拡大したといわれているので、蒲田地区に近い本区にもかなりその影響があったことが想像される。また最も歴史の古いといわれる築地支部に芝地区が含まれていたので、地理的にも隣接の本区はその影響を受けていたことが推察される。

 昭和三十年以降の区内居住会員数は同学会より区議会議員が立候補しているのでその得票数によっておおよそ推察することができる。得票数の内訳は第201表のとおりで、昭和三十年に約四、六〇〇名に達しており、戦後の一〇年間にここまで漸増してきていることがわかる。

第201表 品川区議会議員創価学会系および公明党議員立候補者得票数
投票年月日 得票総数 立候補者数 当選者数 所属党派
昭和30年5月1日 4,614 2 2 無所属
34 4 30 10,250 4 4
38 5 1 19,922.840 8 8 公明政治連盟
42 4 15 26,822.309 12 4 公明党
46 4 11 27,162.245 6 6

 

 昭和三十二年末に、創価学会は会員数八〇万世帯と公称するに至ったが、このころから従来のタテ線組織と併行して、地域割りのヨコ線組織を補助的に設けるようになった。そして昭和四十五年に完全なヨコ線組織への切替えが完了した。現在品川区は、東京第二ブロック本部に属する品川ブロック本部が置かれ、その統括下に五反田・荏原・戸越・小山・大井・大井東の六つの総合ブロックがあって、区内在住の会員はそのいずれかに属し、この総合ブロックが大ブロックそしてさらにブロックに細分されている。

 創価学会の会員数は、昭和四十二年に六百数十万世帯、現在七五〇万世帯といわれているが、そのうちの品川区内の会員数については公表されていない。昭和四十二年四月に行なわれた品川区議会議員選挙での公明党候補者の得票数は約二万七〇〇〇票であり、昭和四十六年四月の区議会議員選挙でもほぼ同数の得票数があり、これに近い数の会員が区内に居住していることが推測される。