既成教団の活躍

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既成の教団のなかにも、戦後の民心の動揺期に民衆の精神的な要望を適切にとらえて信徒を獲得し、着実に成長を続けた教団もあった。その一つとして天理教をあげることができる。

 品川区での天理教教会の設置状況をみてみると上記のとおりとなる。

第202表 品川区内天理教分教会地区別,設立年代別一覧表
年代 明治期 大正期 昭和期
地区別 10年まで 20年まで 30年まで 40年まで 41年以降
品川支部 品川地区 1 5 2 1 1 10
大崎地区 2 3 1 2 1 1 10
大井地区 1 5 1 3 6 16
荏原支部 1 11 11 5 4 2 1 35
合計 5 24 15 9 13 3 2 71

 

 上記の表を見ると、本区に現在設置されている天理教分教会は、品川支部(品川・大崎・大井地区)三六教会、荏原支部(荏原地区)三五教会、計七一教会を数えることができるが、大正期から昭和十年までに区内に数多くの分教会が設立されており、荏原支部区域つまり荏原地区は昭和十年代に入ってもその傾向が顕著である。これは昭和十年までは各地域とも都市化が進んで人口が急増し、昭和十年代に入ると荏原地区のみはさらに人口が増加し、他の地区はこれが鈍化したことが理由として考えられる。ところが、戦後昭和三十年までの一〇年間も、各地区とも設立数が多く、この間に一三教会が創設されている。


第163図 天理教会(都南分教会)

 この時期は戦災、疎開等によって人口はいちじるしく減少しているにも拘わらず、設立が続いているのは、戦後の混乱期にもかなり積極的に布教活動を行なって、民心を把握していったことが推察される。

 天理教のほか、明治十五年(一八八二)平山省斎の設立した神道大成教も、戦後区内の教会を中心に布教活動を行なった。

 栃谷吉太郎は、昭和九年に戸越に大成教に所属する教会を設立し、昭和十一年に西中延二丁目の現在地に教会を移した。第二次大戦中信徒が減少したが、昭和二十一年信徒を集め、教会を中心に救世稲荷講社を結成し、漸次信徒をふやしていった。のちに栃谷は神道大成教管長にも就任している。

 このように戦後信教の自由が保障されたことが端緒となって、物心両面にわたる窮乏の時期に、民衆の要求にこたえて数多くの新興宗教が派生した。そしてあるものは教勢を次第に拡大して大教団に成長し、また小規模のままで組織を拡大せずに、一定数の信徒を擁し着実に活動しているものもあり、さらに教勢が漸次衰えていって、現在では廃絶には至っていないが、極度に衰乏しているものなど多種多様で、本区にもこのような各様の教団に所属する教会が設立され、布教活動が行なわれた。さらに戦前からの既成教団のうちにも、この時期に活動して信徒の増加を図ったものもでてきたのである。