昭和二十年の敗戦とアメリカ軍による占領は、戦前日本に大きな改変を強いる契機となった。アメリカの初期対日占領政策の基調は、民主化、非軍事化政策であったが、そのなかで地方制度の改革は重要な位置をしめていた。昭和二十年十月、発足した占領軍総司令部民生局が、この事業を積極的にとり上げるのであった。それは、これまでの中央集権的地方制度の改革と、町内会・隣組制度に目をむけていった。
このような占領当局の地方制度改革の意向のなかで、幣原内閣や内務省は、地方制度改革案の作成に着手していった。だが、内務省などの勢力は、この改革をなまぬるいものに止めようとし、知事の公選についても、住民による直接選挙に反対し、知事を官吏として中央政府の指揮監督下におこうとする中央集権的な発想を行なっていた。このような姿勢は、町内会・隣組に対する態度においても同様であった。すなわち内務省は、昭昭二十年十二月、町内会を「隣保互助国策協力の自主的組織」とするよう指示を行ない、その自主性を強調した。だが、それは、町内会を行政の下請け機関とする、戦前の「上意下達」的方向をなおとり続けるものだった(『戦後自治史』Ⅰ)。
こうした内務官僚などの旧勢力の対応にもかかわらず、占領当局の地方制度改革への要求は次第に具体化されていった。この占領軍の動きは、昭昭二十年末から起こっていた自治権拡充運動や、住民の町内会・隣組への不満の声のなかで、旧勢力のあいまいな地方制度改革の方向を封じていった。昭和二十一年四月の戦後初の総選挙の結果、幣原内閣は倒れた。そして一ヵ月以上の政治的空白の後をうけた第一次吉田内閣の手によって、地方制度改革への動きは具体的なものとなっていった。五月二十五日、同内閣は、「東京都制の一部を改正する法律案要綱」、「市町村制の一部を改正する法律案要綱」を閣議決定した。だが、その底には内務官僚などの現状維持的方向が流れていた。たとえば、この点を区の制度についてみると、区会での区条例・区規則の制定権や、区の課税・起債権といった要求は認められたとはいえ、区側が要求してきた区長公選は、依然都長の任命の方向に変えられていたのである。
この政府原案の方向に対して、区の自治権拡張への動きは、衆議院議員と結びつき活発化した。いっぽう、占領軍総司令部も、八月一日、原案に対する修正要求を行なった。それは、区の問題についていえば、区長の直接公選を求めるものであった。こうした自治権拡張運動や、この時期世田谷を中心として行なわれた町会民主化運動(区長公選要求にまで発展)といった住民の動きおよび占領軍の圧力のなかで、政府原案は修正されていった。そして、九月二十七日、東京都制・府県制・市制・町村制の改正法が公布された。これが、戦後の地方制度の第一次改革であった。この特徴の一つは、住民の直接選挙の範囲が都道府県・市区町村の長にまで広げられ、住民の直接請求や住民投票が認められたことである。第二には、地方公共団体への監督官庁の権限が大きく削られ、その自律性が強調されたことであり、第三の点は、行政の公正さ保持のために、行政機構から独立した選挙管理委員会・監査委員制度の創設などにみられる。
この地方制度の第一次改革によって、区側は、戦前の都制要求運動・自治権拡張運動で要求してきた諸点を獲得した。その一つは、都・区長の直接公選制であり、第二には区議会の権限拡大、すなわち区条例の制定議決権などの権限拡充であった。しかも第三には、それへの財政的裏付けとして区に課税権・起債権が与えられたことである。だがこうした地方制度の民主化にもかかわらず、町内会・隣組に対する行政の下部機構化の方向は依然としてとられていた。たとえば都は、「民主化選挙の実をあげる」という口実の下に、昭和二十一年八月、「これまでの投票区では広すぎるためか棄権が多いので、この秋の選挙から一町会を一投票区とし最寄りの町会事務所や学校で投票できるやうにする」という考えを明らかにした(『朝日新聞』昭和二十一年八月三日付)。この考えは善意であれ、町内会を行政の基礎に組み込む志向の現われであった。この方向が続くなら、それは地方制度の民主化をなし崩しにする恐れもないとはいえなかった。
しかし昭和二十一年十一月公布された新憲法は、明確に「地方自治」の精神をうたいあげた。そして翌年五月、新憲法とともに施行された「地方自治法」は、昭和二十一年の地方制度第一次改革を法制的に裏付けた。その地方分権主義の方向は、昭和二十二年十二月の内務省解体によってさらに実質化され、同月の地方自治法の第一次改革にひきつがれていった。この方向は、町内会・隣組に対しても適用された。昭和二十二年一月四日、占領軍の意向をうけて、政府は、町内会・部落会およびその連合会の長の選挙に関する勅令を施行した。だが、占領軍総司令部は、同月十七日、内務省に、町内会・部落会およびその連合会のすみやかな廃止を命じるに至った。これに基づき、内務省も二十二日、新聞を通じて、町内会・部落会を廃止することを発表したのであった。
この突然の発表は、混乱をよんだとはいえ、三月いっぱいに町内会・部落会・隣組を廃止する方向は着々と進んでいった。そして町内会隣組の扱っていた事務は、市区町村に移管された。だが、食糧などの調達・配給を隣組によっていたこともあって、この廃止は区民にある程度の不安をもたせるものであった。このなかで、旧町会・旧隣組の役員が、町会の類似団体を設立する動きも起こっていった。そして町会の代わりに、自治会や連絡事務所がつくられたが、それらも町会類似団体として廃止され、六月一日からあらたに、区役所の出張所が設立されていくこととなった。ここに町内会・隣組は廃止されたのであった。
しかし町内会・隣組は、事実上生き残った。それは、旧町内会の有力者を中心につくられていった防犯協会などの動きであった。品川区の一部の地域においても、昭和二十二年十一月、町民大会を開き、町民の連帯性を強調し、民主的町会の設立を行なっていくのも、これらの動きの一環ともみることができよう。