新品川区の成立

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戦前、発展し続けてきた品川・荏原の両区にとって、戦災は壊滅的影響を与えた。昭和十五年、品川・荏原両区の四二万人弱の人口は、昭和二十年十一月の調査では、実に一四万余人というように、約三分の一になってしまった。そして戦災によって、両区とも多くの地域が焦土と化した状況であった。この状況は、東京の三五区においても大差なかった。戦災と疎開の結果、人口四万人以下の区も、一〇区以上生まれていたのだった。このような小さな区の出現は、区の統合を促す大きな要因となっていった。

 それと同時に、敗戦とそれに続く民主化への歩みは、区の自治権拡充運動に大きなきっかけを与えた。昭和二十年十月の麹町区会の東京都制の即時改正と自治の徹底を訴える意見書の決議は、このような動きのさきがけをなすものであった。すなわち、この意見書は都・区長の公選、課税権を含めた自治権の拡張、警視庁の廃止、区の配置分合などを内容としており、戦前、不当に制限・圧殺された自治権の拡充を求めるものといえた。そして、これをうけた東京都議会も、同月二十九日、「東京都制改革断行に関する意見書」を採択していった。さらに、このような動きは、十一月の各区による自治革新連盟の結成とその自治権拡充運動に連なるものだった。

 こうした自治権の拡張を求める動きは、品川・荏原においても例外ではなかった。だが、自治権拡充運動は、先の麹町区会の意見書にも見られる通り、最初から区の配置分合をある程度前提にしていたことは注目される。すなわち、自治権拡充によって「課税・起債の外法律や条例の改正で、より多く委任さるることに成らうが、それには二、三万の区では問題に成らない。少くとも二十万以上が必要だ。要するに権限委譲について、先づ受入態勢が要る」という認識であった(『品川荏原統合誌』)。こうした認識に基づいて、人口減少という現実の下に、自治権拡充運動は、その一つの内容として、区の統合を取りあげていった。


第164図 品川荏原統合誌

 このようななかで、昭和二十一年九月、都は区域整理委員会を設け、区の統合についての諮問機関とした。六〇名の委員からなるこの区域整理委員会は、都会議員・区会議長・都や関係官庁官吏および学識経験者により構成され、品川・荏原からは都会議員斎藤卯助(荏原)、区会議長風間実(品川)、区会議長山口織之進(荏原)など四氏が加わった。九月二十六日、東京都長官安井誠一郎は、この委員会に次のような諮問を行なった。

 戦後の都各区の現状と将来の復興に鑑みると共に、改正都制実施に伴ふ区の自治権拡充に対処し、区の区域を整理統合の要があると認める。よってこれが方策について貴会の意見を諮ひます(『品川荏原統合誌』による、傍点引用者)。

 そして都側は、一区の人口二〇万人前後、面積一〇平方キロメートルを一つの基準に、三五区を二二区に整理する案を提出した。この都の意見に対しては、区の区域が小さすぎるとする反対論も同委員会の内部にあり、また自治権拡充についても、都による区への委任とか代決事項が多いのは、自治権拡充といえるかといった意見も聞かれた。これに対して都側の都制対策本部は、区統合の意義を、大きな区をつくり、区ごとのデコボコをなくすことだとし、「民主化の根本のねらひは地方自治権の拡充だが、都の場合は、これが区の自治権の強化となって現れる」という見解を示すのであった(『朝日新聞』昭和二十一年十月二十九日付)。そして十一月二十七日、都区域整理小委員会は、都の二十二区案を承認し、区の境界の凹凸の是正・区自治権拡充によって、区が真の自治団体たるよう努力する点を付帯事項として答申を行なった。これによって、一一区が単独で、他の二四区は一一区に統合されることとなり、品川・荏原両区統合の方向も明らかにされたのであった。だが、この統合案の決定に対して、これでは、自治権拡充とならないとする反対の声も強かった。たとえば、荏原・目黒・蒲田・大森・世田谷・品川の城南六区正副議長は、昭和二十一年十二月十七日会合し、不満の意を表明した。その決議の一部を掲げれば、次の通りである。

 今回東京都区域整理委員会ノ提出シタル答申ハ、其内容空粗ニシテ明確ヲ欠キ、統合ノ結果、之ニ伴フ区民ノ福祉ニ、何等実績ノ見ルヘキモノ無キハ、我等ノ期待ニ反シ、遺憾ニ堪ヘス、都ハ須ラク区ニ市ト同一ノ性格ヲ与ヘ、完全ナル自治体タラシムル様、最善ノ努力ヲ払ハレンコトヲ要望ス(前掲書による、傍点は引用者)。

 しかし、この決議に参加した品川区は、大体において、自治権拡充については不満はあれ、早急な統合を望んでいた。すなわち、昭和二十一年十一月二十日、品川区会は、都の二十二区案賛成の声をあげていたのだった。一方、荏原区会においては、自治権拡充についての不満から、品川区との統合に対する決定は遅れていった。だが、荏原区の財政難という状況は、早晩、統合に赴かざるをえないものだった。昭和二十二年二月六日、荏原区会も、ついに品川区との統合を可決するに至った。これ以後、新区名をめぐって、品川・荏原両区の駆け引きはあったが、三月二十五日、荏原区会は、品川を新区名とすることを決定し、これをうけて品川区会も決議を行ない、品川・荏原両区は、新たに品川区として発足することとなった。

 続いて四月五日、昭和七年の品川・荏原両区の成立以来、はじめての品川区長直接公選が行なわれた。この区長選挙において、自由党の鏑木忠正が三万七〇〇〇余票を獲得し、社会党の浜田慶治の二万五〇〇〇票弱、共産党の平沢実の六、〇〇〇票弱をおさえて、初代の公選区長となった。そして四月三十日には、四五名の定員に対して一二三名が立候補して、品川区会議員選挙が挙行された。この選挙において、自由党二三、社会党七、民主党三、国民協同党一、共産党一、無所属一〇の議席が決定した。この区会議員選挙における特徴の一つは、社会党、共産党の区議会進出と、社会党の高田なお子のような女性区議の出現であった。第二の点は、戦前の区会議員のうち、選出されたものが、七名に止まったことである。これは公職追放の関係などにもよろうが、戦後の民主的ムードの反映ともいえた。第三には、全都の区議九〇〇人弱のうち三分の一以上を占める第一「党」の無所属議員が、品川では一〇名に止まり、自由党が過半数を獲得したことであった。

 そして品川区会は議長に平田栄司(自由)、副議長に高村力畋(自由)を選出した。また鏑木区長の下で、助役・収入役も決定され、ここに名実ともに、新品川区は、その体制を得たのであった。だが、品川・荏原統合の余韻は、その各課の編成に尾をひいた。総務課・庶務課以外の、区民・税務・民生・戸籍・経済・教育・土木の各課(昭和二十四年八月現在)は、それぞれ一課と二課に分れ、品川・荏原を分担担当したのだった。ここにも、品川・荏原両区統合の複雑な状況をみてとることができるであろう。