戦後選挙の動向

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占領軍による民主化政策は、選挙の面でも具体化していった。とりわけ当時の衆議院議員が、東条内閣の下での翼賛選挙によって選出されたという事実は、占領軍に総選挙の施行をいそがせた。この意向をうけて幣原内閣は、昭和二十年十一月、衆議院議員選挙法改正の要綱を閣議決定した。そしてこれに基づく選挙法改正案は、同年十二月議会で修正可決されていった。この選挙法改正によって、婦人参政権、および選挙権年齢の二十歳への引き下げ、選挙運動制限の大幅緩和が行なわれ、さらにそれまでの中選挙区単記制は大選挙区制限連記制に改められた。

 選挙権・被選挙権の拡大、選挙運動のある程度の自由化は、選挙の民主化を、一歩押し進めるものであった。ここでは、このような戦前と異なる選挙を、昭和二十一・二年に限って追っていくこととする。戦後はじめての選挙は、昭和二十一年四月十日行なわれた衆議院議員総選挙であった。だが、官憲側は敗戦後、直ちに総選挙の施行を考えていた。たとえば警視庁に、昭和二十年九月、総選挙に対する一般人の意向をさぐっていた(昭和二十年九月二十五日官情報第七〇二号「衆議院総選挙施行ニ関スル一般層ノ意嚮ニ関スル件」)。これは、戦後の民主化がなされない以前に総選挙を行ない、旧勢力を温存しようとする意向の反映であった。これに対しては内外からの反対も強く、占領軍総司令部も、昭和二十年十二月、日本政府の翌年一月総選挙施行の方向に対して、選挙期日の延期を命じた。さらに一月の総司令部の戦争責任者への公職追放令は、総選挙施行を四月まで引きのばしたのだった。

 この総選挙への動きのなかで、次々に政党が結成されていった。昭和二十年三月、翼賛政治会を解消してつくられていた大日本政治会は九月解散したが、この流れは昭和二十年十一月、日本進歩党を結成した。翼賛選挙の非推薦組を中心とした保守系の人々も同月、日本自由党を結成した。これに対して左・右の社会民主々義者も同月、日本社会党を結成し、また同年十月釈放された共産主義者を中心に、十二月には日本共産党も合法的に再建されるに至った。こうしたなかで、昭和二十一年四月施行された総選挙は、国民の生活難という状況のなかで投票率は七二%に止まった。だが、大量の棄権を予想されていた婦人は、六七%の投票率を記録し、予想を裏切る結果を示した。この総選挙の結果、自由党一四〇人、進歩党九四人と旧来の保守勢力が過半を占めたのに対し、社会党九二人、さらに共産党五人という進出もみられた。同時に、この総選挙において、最初の婦人参政権の行使は、三九人もの婦人代議士を生みだしていった。

 品川・荏原両区の属した旧東京五区は、この総選挙においては旧東京七区と合併して、定員一二名の大選挙区・東京二区を構成し、三名連記の投票で行なわれた。この総選挙の結果、加藤シヅエ・中村高一・河野密(七月辞表提出、山花秀雄繰上げ当選)、鈴木茂三郎・松岡駒吉・荒畑勝三の六人の社会党候補が当選し、共産党の徳田球一も議席を得た。これに対して自由党は大久保留次郎・花村四郎・栗山長次郎・広川弘禅(六月再選挙で当選)の四名に止まり、残り一議席を婦人候補の松谷天光光(諸派新)が占めた。この東京二区での社会党・共産党の躍進にみられる傾向は、全国的には自由・進歩の旧来の保守勢力が過半数を占めたとはいえ、折からの食糧危機のなかで、幣原内閣打倒やその後の四〇日余の空前の政治的空白期間発生の端緒的現われともいうことができよう。

 この総選挙によって選ばれた衆議院は、新憲法や昭和二十一年九月の第一次地方制度改革などを行なった。そして新憲法の理念とは相いれない貴族院に代わって、昭和二十二年二月、参議院議員選挙法が公布された。続いて三月三十一日には、衆議院議員選挙法改正が行なわれ、大選挙区制限連記制に代わって、中選挙区単記制がとられることとなった。そして衆議院も同日解散された。これによって昭和二十二年四月は、空前の選挙ラッシュとなり、「四月選挙」といわれるのであった。すなわち統一地方選挙(四月五日 都知事・区長選挙・四月三十日都・区議会議員選挙)、参議院議員選挙(四月二十日)、衆議院議員選挙(四月二十五日)という一斉選挙で、国民はこの一ヵ月間に実に四回、七枚の投票用紙に記入したのである。

 四月選挙の皮切は、五日に行なわれた都道府県知事選挙と区長選挙であった。区長選挙の結果は、先に述べた通りであるが、都知事選挙においては、官選都長官の経験をもつ保守系無所属安井誠一郎が、社会党の田川大吉郎を九万票弱引き離して当選した。そして全国的にも社会党知事は四名に止まり、旧官僚が多く当選した。続いて四月三十日、締めくくりとして、都会議員選挙、区会議員選挙が行なわれた。区会選挙は前述の通りであるので、ここでは都会議員選挙についてみてみよう。新品川区においては五名の定員に対して、旧両区選出都議三名を含めて、自由党六、民主党五、社会四、共産党二、無所属二の一九名が立候補して激しくせりあった。この都議選において自由党四一に対して社会党は三八議席を獲得し第二党とななった。一方この選挙において前議員の当選は二四名に止まった。品川区の結果は次の通りである。

 大塚実   社新  七、八一二

 西本啓   民前  七、一二〇

 石原永明  自前  七、〇三九

 伊藤喜一   社新  六、五四二

 鏡省三    自新  五、九四八

次・小野慶十  自新  五、六七六

 この結果からみて、品川区においては、旧品川出身の前議員の強さと同時に、社会党進出の傾向がうかがわれる。

 こうした社会党進出の傾向は、これに先立って行なわれた衆・参両院選挙にも現われていた。四月二十日の参議院議員選挙において、六年・三年の両議員が共に選出され、社会党は四七議席を得、自由党の三八を押さえて第一党となった。だが、無所属は実に一一一名を占めるという現象もその際にみられた。東京地方区においても八名の定員に対して自由党七、社会党四、民主党二、共産党二、無所属一〇名が争った。その結果、桜内辰郎(民)、吉川末次郎(社)、島清(社)、黒川武雄(自)、帆足計(無)、深川タマエ(民)西川昌夫(自)、遠山丙市(自)の各氏が当選し、社会党は六年議員四人のうち二名を占めるに至った。

 続いて二十五日行なわれた衆議院議員総選挙において、社会党は一四三議席を獲得し、第一党に進出した。品川区・大田区(旧大森・蒲田両区統合)および島部からなる東京二区においても、三名の定員に対して一六名が立候補するという激戦のなかで、社会党の現職、松岡駒吉・加藤シヅエは、一・二位で当選し、自由党は菊池義郎の当選に止まった。そしてこのなかで、社会党・民主党・国民協同党の三党連立内閣が成立し・社会党の片山哲が首相となるのであった。