アメリカ占領軍の教育「民主化」

834 ~ 836

敗戦を境に教育界は一八〇度の転換をせまられたのであるが、一人ひとりの教師にとってはとまどいと苦悩の日々であった。

 つぎの文は当時の教師の気持の一端を伝えている。

 「私は昭和二十一年の四月にこの学校に赴任したので当時の斎藤(みつる)教頭のあとを引き受けたわけです。その当時は終戦直後の一番面倒な問題としては、進駐軍が各学校をまわってあるいて、鉄砲だとかそのほかの道具、教育上誤解されるようなものを置いてはいけないとかいうような問題がありました。そのために当時のアメリカの将校デューペという人が、通訳を連れて学校にやってきて、それも突然にやってくるんです。そして真先きに学校などグルグルまわって戸棚とか押入れとかをあけて見るわけですが、丁度うちでは、ラッパが戸棚をあけた拍子に出てきたので、非常に私たちは面くらってしまった。別の押入れをあけてみると掛図が何本かでて、満洲の地図だとか、朝鮮の地図だとか出てきて注意され、色をぬりかえたりして、児童の教材教具はいちいち気をつかったものです。ラッパがでたときはうちの学校は評点がわるくて紙にCなんて書かれたのを貼られたものですが、又、半月ばかりたってからやってくるというので神棚を処理し、最後にはAを貼られて無事にすみました。」(戸越小学校記念誌「のびゆく戸越」三八ページ)

 「終戦を迎えて私の今までこれが自分だと思っていた意識が融けくずれていくように自覚された。それは教育勅語や軍人精神を根底にした軍国主義的な教育方針で培われたものであった。(中略)

 東京に残っている少数の子どもを集めて栄養失調になっている教師と児童が学級活動を営んでいったが、教師は過去の教育理念を清算しきれず、しかも新しい人間像を描けないままに、教師であったからまた戦後教師となっていたという期間があった。激しい変動のなかに身をさらして自分と教育を考え直す余裕はほとんどなかった。」

(戦後東京都教育史 中巻 東京都立教育研究所七ページ)

 「焼土と化し、はるかかなたまで望める地に立ったとき、一体これからの日本はどうなるのだろう。無条件降伏というものがどんな形となって具現されるのだろう。数日前まで疎開地で、または軍需工場で苦楽を共にし、勉強と生活とを一体化してきた子ども達とは、今後どういうつながりをもつのだろう。それよりも、GHQの進駐と軍政に、日本人を日本人でなくするためのあらゆる手段を用いるのではあるまいか。思考力さえも失った頭に、先づ、こんなことがひらめいた。………」

(資料前掲書七~八ページ)

 敗戦二ヵ月後に行なわれた新教育方針のための文部大臣の訓示も、なお混迷と苦悩にみちたものであった。その一部を示すと、次のようなものである。

 「此際我々が、教育界より一掃せねばならぬものは軍国主義と極端狭隘なる国家主義でありまして、今後と雖もそれらの思想の残滓が教育界の一隅に潜んで、真正なる教育を毒することなきやに対し、十分の警戒を加へねばならぬと存じます。由来我が皇室に於かせられましては深く平和を愛好せられ、国民また和を以て貴しとする思想に親んで居たに拘らず、近年抬頭せる軍国主義将た狭隘極端なる国家至上主義に歪曲せられて、本来の大和の精神、互尊互敬の精神が傷はれたのでありますが、茲にこれを恢復すると共に、広く心を開いて世界の同胞とその思想の根底を一にする平和愛好の精神を涵養せねばなりません。これは何も連合国進駐軍が今、日本に留ってゐるから此の新方針に則ると云ふ様な気持からでなく、真にこれが天地の公道人倫の常径に基く所があるからであります(中略)。

 茲に於て吾人は茲に改めて教育勅語を謹読し、その御垂示あらせられし所に心の整理を行はねばならぬと存じます。教育勅語は吾々に御諭し遊ばされて、吾々が忠良なる国民となる事と相並んで、よき人間となるべきこと、よき父母であり、よき子供であり、よき夫婦であるべき事を御示しになってをります。即ち国民たると共に人間として完きものたる事を御命じになってをります。然るに近年教育がこの国民たると共に一個の人間とならねばならぬ事につき、問題を等閑に付した事が、最近道義頽廃の原因にもなってゐると思ふのでありまして、今後の教育としては先づ個性の完成を目標とし、立派な個性を完成したる上、その出来上った立派な人格が、その包蔵する奉公心を発揮して、国家社会に対する純真なる奉仕を完うするやう導いて行かねばならない。(資料「連合軍教育指令綴」)