太平洋戦争の末期になると、アメリカのB29による空襲がいよいよ東京にまでおそい、人々を毎夜おびえさせるようになった。昭和二十年の三月十日には東京の下町を中心に大空襲があり、街並みを焼きつくして多数の犠牲者を出した。そして五月二十四日には山手がおそわれ、この夜品川・荏原地区は大きな被害をうけたが、学校も多数戦災にあった。当時国民学校は、全部で三二校ぐらいあったと思われるが、この夜の空襲をかろうじてまぬがれたのはたった七校であった。他の二五校は多かれ少なかれ戦災をうけ、そのうち半焼四校、全焼が一九校にのぼった。この他強制疎開で半壊状態になった一校を含めて、結局、終戦時完全な姿を保っていたのは、三二校のうち七校であった。
戦争が終わって二、三ヵ月もたつと各地に疎開していた子どもたちも続々帰京し、授業が再開されることになるが、即座につきあたった困難は教室不足であった。
戦災で全焼した学校は、焼けのこった講堂や物置を使ったり、他の戦災をまぬがれた学校の一部を借りたりした。終戦直後には焼跡での「青空教室」で勉強した子どもも多かった。したがって戦災をまぬがれた学校といえども、そこには戦災をうけたいくつかの学校が同居して、結局教室不足のためどこでも「二部授業」や「三部授業」がおこなわれざるをえなかった。「二部授業」や「三部授業」は、登校時間が午前になったり、午後になったりするので、先生も生徒も混乱して間違えるというようなこっけいなことも生じたが、他方、授業時間の不足とか、逆に学校にいる時間が少ないため社会情勢の不安定ともあいまって子どもの不良化など多くの問題点を生じた。のちにのべるように、この教室不足の解消が学校運営の大きな課題となるのであるが、結局二部授業がなくなるのは昭和三十年代に入ってからである。
さきにのべたように戦災をまぬがれた学校が少なかったので、そこにはいくつもの学校が同居して戦後の授業が再開された。戦災をまぬがれた芳水・浜川・延山・中延・後地・第二延山の各国民学校や、半焼した原国民学校にもそれぞれ次のような学校が同居した。
芳水国民学校には、第一・第二・第三・第四日野国民学校など七校が同居、
浜川国民学校には昭和二十三年八月まで大井第一国民学校が同居、
延山国民学校には上神明・源氏前・大原国民学校が同居、
中延国民学校には大間窪・宮前国民学校が同居、
後地国民学校には小山・平塚・南功・中原国民学校が同居、
第二延山国民学校には旗の台国民学校が同居、
半焼の原国民学校にも山中・伊藤の二校が同居した。
子どもながらに校舎を借りていた子どもはちいさくなっていたらしい。
「昭和二十年から二年有余、私共は浜川小学校の教室を借りていたが、戦後疎開より続々皆が帰って賑かになった。子供の心理から原因もなく間借りと間貸しの学童はよくけんかをした(中略)。
プールで遊ぶ浜川の生徒を横目でにらみ、ブランコにのった。時々みんなで焼跡へ遊びに行き、焼材の浮いたプールで水いたずらをし、焼れんがの上を走りまわった。今から考えるといじらしい。」
(東京都品川区立大井第一小学校創立八十周年記念誌六五ページ)