食糧難と学校給食

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学校給食は今日ではかなり普及し、昭和四十七年度では東京都ではパン・ミルク・おかずの三点そろった「完全給食」が、小学校では九九・三パーセント(全国では八八パーセント)で行なわれている。中学校でも八〇パーセントをこえている。ここまで普及した学校給食の意義について、食糧事情がかなり豊かになった今日では再検討の声もきかれるが、学校給食がはじめられたのは食糧難の戦中・戦後の時期であった。あらゆるものを戦争に投入しつくして、そのために敗戦後には国内の生産力は荒廃しきっていた。たとえば米の収穫高をみると、敗戦の年(昭和二十年)には平年作の半分であった。米だけでなく、あらゆる食糧・衣類などの生活必需品がこのようなありさまであったので、区民生活は極度に逼迫した。

 学校でも弁当をもってこない子ども、朝ごはんをたべてこないですき腹のため授業に身がはいらない子どもや、ひどいときには倒れてしまう子ども、そして全体に栄養不良でみな元気がなく青白い顔をしていた。

 このような状態では勉強どころではなく、まず子どもたちに少しでも栄養を与えることが先決問題だった。こうして学校給食が実施されたのである。


第166図 学校給食

 昭和十九年四月にまず六大都市の学校からはじめられた。当時は給食といっても御飯をたいて食べさせることが中心で、今日のような完全給食ではなかった。米は当時は配給制度であったからもちろん政府から配給されたのであるが、一般家庭と同じく玄米でそのまま食べなければならなかった。しかし当時の思い出話によると、「当時は御承知のとおり玄米でございました。それが大変よくたけていまして、家庭でもなんとか玄米をじょうずにたかないといけないと思って学校のを手本にして苦心したものでございます。」というふうであった(「宮前」三十周年記念誌四五ページ)。副食などはまったく支給されなかったようで、学校菜園で補給したところもあった。物資不足の折から、釜一つ手に入れることも苦心惨たんのありさまであった。

 「ところがその当時御飯をたくといいましても御存知のように鉄類は供出により不足し、千数百の子どもにたいてやる釜をみつけることが至難なことであったのであります。そこで本校が目をつけたのが当時おそばやの材料がないために方々で休業しておったのを衣笠先生が隣の朝日屋というそば屋に他校より先に手をつけたので、本校のお釜はチットも心配はなかったのであります。他校では釜集めに大変苦心され、そのために課長は数校ずつ責任をもち各校に釜集めの督令をやったのであります。ところがいくらたっても集まらず区役所としては川口で四斗釜、たしか二四個だと思いますが、やっと手に入れたという話もあります」(「宮前の三十周年記念誌」四五ページ)。

 この後学童疎開がはじまり、また戦災など敗戦前後の混乱状態のなかで学校給食は途切れたものの、戦後学校が再開されるにしたがってふたたび学校給食の必要が痛感され、ぼつぼつと学校給食をおこなうところがふえていった。

 中延校を借用していた京陽小学校での給食は昭和二十三年一月二十一日次のようにしてはじまった。

 

 「戦後再開第一回の給食は『みそ汁』で始まる。中延校の給食室(旧陸軍が使用した炊事室)の一部を借用した。集団疎開から引き揚げの容器を使用し、女教師の奉仕作業で始められた。

 献立――鮭缶入りみそ汁――軍放出物資の鮭缶に児童は歓声をあげ、おかわりを重ねた。週二回、火・木曜には朝からソワソワしていた姿が追想される。二月十七日には新しく炊事婦を迎え、給食は本格的にすすめられることになった。

 新年度を迎え四月当初三回から始まる。六月に脱脂粉乳が配給になってから週五回になり、十一月からは土曜日にもミルクをと、週に六回行われている。

 ここに規定通りに行われた或一週間の献立をとりあげてみる。

 献立例

 (22年4月)  (火)  鯨肉、野菜

         (水)  ジュース

         (木)  野菜バタいため汁

 (22年6月)  (月)  みそ汁

         (火)  ミルク 乾ぶどう

         (水)  ジュース

         (木)  鮭冷凍野菜

         (金)  ミルク

 (22年12月)  (月)  ミルク

         (火)  みそ汁

         (水)  ミルク

         (木)  魚つゆ

         (金)  ミルク

         (土)  ミルク

 ミルクによって回数は増したが、内容の向上はみられない。また調理室の不備と物資の配給状況によると推測される『本日中止』の日も多いのである。」(『伸びゆく京陽』一九六七年一〇月四九ページ)

 給食といっても肉や野菜があればできるものではない。調理場をはじめいろいろな設備がいるし、燃料もいる。板がこいの調理場で、針金をまいたものでミルクをかきまわさなければならない状態であった。またある学校は次のような苦労の末、燃料を手にいれることができたのであった。

 「すべてのものが配給、配給の制度で味噌汁を作るにも燃料が第一いるわけで、とうとう給食のための燃料が不足になってきて、役員会を開いて話しあった結果、区にお願いして許可をもらって戸越公園の木の枝打ちをしました。元気のいい先生は上にあがって枝を切り落とす、もちろん役員の方々も手伝っていただいて相当な枝ばらいをしたわけですが、これをまとめまして、上級生あたりには手伝ってもらって校庭に運んでかなりな燃料ができ、非常にみんなよろこんだものです。おそらく、こういう公園の恵みのあった学校は特別であって、方々の学校は燃料に相当苦労したんじゃないかと思います。まあ、私なんかもブルブルふるえながらも高い木の上にあがって枝打ちしたんですが、これも本当に子どものためにやらなくちゃいけないと、先生たちもノコを手にしました。」(戸越小学校記念誌三〇ページ)

 ここにのせた記録をみても関係者の陰の努力は並大低のことではなかった。今日では大方三〇歳台であろう当時の小学生は覚えていられるであろうが、米軍の放出物資のキャンデーやチョコレート、たくさんお砂糖のついたドーナツなど、普段みたこともないようなものが給食で出された時のうれしさは、何ともいいようがないものであった。また脱脂粉乳のミルクのまずかったことも忘れられない。調理器具不足のためだろうが、完全に溶けていなくてコップの底につぶつぶとしたものが残っていたり、あるときは鍋の底でこげたらしく、こげ臭いミルクは空腹でも、なかなかのどを通らなかった。

 なにはともあれ、極度の食糧難の当時にあって学校給食の果たした役割は、子どもたちの心身両面にわたって大きなものがあったであろうといわなければならない。

 このようにして食糧難の時代に子どもたちになんでもよいから食べるものを、少しでも栄養をつけてやりたいということから始められた給食であるが、世の中が落ちつくにしたがって、設備も人員も食事内容も次第に充実されていった。

 やがて給食調理室が建てられ、専門の栄養士が献立をたてるようになり、昭和二十五年ごろからは順次給食もパンとミルクというように主食と副食のそろった完全給食になるのである。