昭和二十三年学校教育法によって六・三制の学制がしかれて、新制中学が誕生した。ところが、敗戦直後の経済危機で物資が極端に不足していた上に、東京都財政も、品川区・荏原区財政もインフレーションで財政見通しが立たないほど混乱していたため、新制中学は生まれたものの、校舎や机・椅子などの施設にたいする予算の裏打ちもない、いわば裸のままの赤ん坊みたいなものだった。とくに戦災をひどくうけた地域では、適当な校舎もみつからないありさまだった。国民学校の高等科(二年制)のあったところは、ある程度教室も確保されたが、それとても、多くの学校自体が戦災を受け、二部授業・三部授業をやらざるをえない事情にあったので焼け残った学校の一部を間借りしてはじめた新制中学は、机も椅子も教材も何もない状態で第一歩を踏み出したのである。
たとえば、他区に建設予定の中学建設予算が、その区で敷地が間に合わぬといういきさつから、急に品川に新設されることになった区立伊藤中学校は、発足当時の新制中学の苦難の状態をもっとも典型的に示す存在だった。伊藤中学は昭和二十二年四月創立されたものの校舎がない、ようやく原小学校の校舎の一部を借りて、五月一日ともかく授業は始められた。先生は一〇名、生徒一八〇名のこじんまりした規模だったが、原小学校そのものが全焼をまぬがれたとはいえ、戦災で校舎の一部を焼失していたし、そこに伊藤小学校・山中小学校も同居していたのだから、教室不足、机・椅子不足、今日ではちょっと想像できない混乱状況だった。伊藤中学のABCD4クラスのうちで机も腰かけも全然ない組、腰かけだけある組、机だけある組、何とか机と腰かけのある組、先生の机だけは東海中学の併設青年学校で使っていたものを分けてもらったりで割合よいものが揃った程度だった。机だけの組で、一先生は「筆記するときには机を使いなさい。先生の話を聞く時には机にこしかけてよろしい。机にこしかけて先生のお話しを聞くなどということは悪いことで、普通の人は一生の間にもめったに経験しないことであるが、新しい机が出来てくるまでは許してあげる」(元伊藤中学校教諭榊原篁、東京都品川区立伊藤中学校「創立十周年記念誌」昭和三十二年九月刊、二八ページ)と話したという。窓ガラスもほうぼう割れたままで全く窓枠さえ何枚かはなかった。ガラスを買う予算もストーブを買う予算もなかったから、真冬にはようしゃなく寒風が吹きこんだ。はじめは教科書もない、試験の用紙もない、チョークもない、何もかもないないずくしだった。ただ、あるものは、何とかして学校づくりをやりぬこう、頑張ろうという先生と生徒の闘志だけだった。あちこちの学校をたずね回って机や腰かけをわけてもらって、それをリヤカーで運ぶ、食糧事情のひどく悪い時期だったから、体力もなかったが、頑張り抜いた。もらってきた机も腰かけも半分こわれかかったしろものばかりだった。釘も板切れも買う予算もなかったので、めいめいが自宅から古釘をもちよって、折れ曲った釘を伸ばして修理した。工作の時間はこの修理作業だった。シラミでなやまされ、雨になやまされた。それでも、先生や生徒たちはへこたれなかった。大井町駅前に立会小学校の旧校舎が空家になっていたのを借用して、三年生の授業をそこでやった時も、荒れはて汚れた校舎の内外をきれいに掃除し、便所を修理し、垣根を修理した。先生も生徒もまっくろになって働いた。ここは教育環境上よくないということで空家になっていたところだった。はじめ父兄はそれを心配したが、自分の教室を自分で開拓していくという行動が、生徒たちの心を鍛え、人間をつくった。この清掃の働きをみて安心した父兄は、後にはかえってこの分校継続を希望する変りようだった。その上、伊藤中学の名称までももめる始末だった。伊藤中学とつけたのは近くに伊藤博文の墓があったことから一部の人がつけたらしいが、たまたま近くに伊藤町もあったが、昭和二十四年六月独立した校舎を建設したところが滝王子町だったので、地名とも違うことや戦前の日本の支配者の名とも重なることなどからかなり、反対の意見が続出し、正式に名称が落着したのは第一回生が卒業まぎわになってからのことであった。まことに、伊藤中学の生い立ちは、このようなたくさんのかさなる困難のなかにおいてであった。この創設時の困難を自分自身の力で克服してきたという歴史が、その後の伊藤中学を支え発展させる大きな原動力となったことはいうまでもないであろう。このような新制中学発足の苦難の歴史は、区内のどの学校にも、多少の違いはあっても、そのほとんどに共通していた。
荏原第三中学も発足した当初は、中延小学校の仮校舎だった。窓ガラスの破損がひどく、雨や雪が吹きこんでくるので、廊下側に机を集めて授業をする始末だった。昭和二十四年独立校舎新築計画を区で進めたが、他中学との敷地問題がこじれて、二十五年にようやく場所もきまり、工事を着手したところキテイ台風の災害をうけ、二十六年二月になってようやく独立校舎に移ることができたのである。新しい校庭も赤土の砂ぼこりが舞い上がるコートに石灰の白い線も引けない未整理のままだった(元荏原三中教諭渡辺淑夫、品川区立荏原第三中学校生徒会「ながれ木」十周年記念号昭和三十三年三月刊一七ページ)
荏原第五中学も一ヵ月間はその仮校舎もみつからず、出身の小学校にそれぞれあづかってもらった後、第二延山小学校に間借りして発足した。その第二延山小学校には立正学園や香蘭女学校もしばらく間借していた。五中はこの学校と入れ替ったものの、旗台校もここに間借していた。まるで寄合世帯だった。校舎は借りたが、こんどは先生がいない、やがて先生も集まったが机や椅子がない、教科書がない、紙がない、鉛筆がない。その上授業時間の始まりと終りをしらせる時計がない、いらなくなった夜警のつめ所からひようし木をもらってカチン、カチンとやっと間に合った(初代校長小林三男「十年回顧」(談話)品川区立荏原第五中学校「わかば十周年記念号」昭和三十三年三月刊二ページ)。
一部教室に講堂を間切りして使ったが手で押すとぐらぐらするような衝立式で、上は全部つつぬけ、隣の部屋の話がそのまま聞こえてくるので授業がやりにくい。雨もりがひどく、破れた窓から吹きつけるので、雨のかからないところをさがして机を移動させる授業風景だった。音楽の時間もピアノはおろかオルガンもない、先生が歌って教えたが、栄養状態もよくないので、のどがかれてしかたがない。一ばん最初に習ったのが新しく制定された東京都歌だった。それも都からワラ半紙に刷ったものがきたから、これ幸いと教科書代わりに使ったという次第である。しかたがないので、体育に集中した。まるで野球学校か体操学校だなどと評判されるほどだった。それでも、先生も生徒もいじけもしないで、のびのびと学校生活を送った。発足年度は一年生五クラス二五〇人、二年生八〇人、三年生一七人(卒業時に二八人)の生徒だったが、なかには予科練帰り組もまじっていて、軍隊でおぼえたタバコは吸う、終戦後どこの学校でもあったことだが弁当をぬすまれる、外から机のふたや垣根をはがしに来る、当時の混乱した世相が、いやおうなしに生まれたばかりの新制中学に吹きこんだのである。アメリカ占領軍のデュッペル大尉をよんで講演と映画をやるつもりだったところ、借りた昭和医大の講堂に暗幕がない、大騒ぎしたが、とうとう映画はできず、講演だけに終わった。これに対して一視学が「もし手落ちがあったら占領政策の違反だと罰される」と言ったということである。アメリカ占領軍にたいするおそれを物語るエピソードであろう。だから、アメリカ占領軍が視察にくると、みんなうす気味悪いのだが、何とかとりもとうと苦心さんたんした。あるとき、視察にきたアメリカ軍の将校に食事を出すことになり、天ぷらが好きだというので、それっとある先生の親戚の天ぷら屋に頼んだ。ところが、もってきたのは、その将校さんが嫌いないかの天ぷらばかり、しかたがないので、そのままだした。デザートにシュークリームもたのんでおいたのがなかなかもってこない。先生がたは、ただもうおろおろするばかりだった(荏原五中前掲資料九~十ページ)。
また学制改革で旧制中学校・旧制高女は、それぞれ新制高等学校に衣替えをした。たとえば、府立第八中は都立第八新制高校、二十五年一月二十八日に都立小山台高校に改称した。