私立学校の変遷

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区内の私立学校も、戦時から戦後にわたって苦難の試練をうけ、学制改革によって復興と新しい発展の道をたどった。

 品川区平塚町の香蘭女学校は、戦時中、学校工場となり、やがて帝都防衛司令部として軍部が使用したが、昭和二十年五月空襲で全校舎が灰じんに帰してしまった。敗戦後、神社や第二延山小学校の校舎を借りて授業を再開した。昭和二十年十二月世田谷区の九品仏浄真寺の境内を借り不自由ななかにも比較的安定した教育活動をつづけ、三年の月日を過ごした。昭和二十三年十一月ようやく校舎を再建して、間借り授業に終止符を打った。昭和二十六年三月増築して戦後はじめて正規の授業ができるようになった。この間、旧制高等女学校から新制中学・新制高等学校へと学制改革による発展を遂げた。その後昭和三十年代に校舎もあいついで現在の鉄筋コンクリートが建設され、発展の道を歩んだ(『香蘭女学校七十年の歩み』)。

 品川高等女学校も学制改革で昭和二十二年品川中学校、同二十三年品川高等学校が発足し、昭和四年来の高等女学校は二十四年で幕を閉じた。昭和三十三年鉄筋校舎第一期工事落成以降、つづいて現在の校舎が建築された。

 昭和二十一年四月、中延学園高等女学校が新しく創立された。現在の富士見丘にあった農林省の米穀倉庫が二棟だけ戦災をまぬがれていた。この倉庫を校舎に改造して利用した。物資不足の折から、廊下の窓は障子のように紙を貼り、天井は素通しで屋根裏がまるみえ、長机に長腰かけ、ちょうど農山村の昔の分教場のような雰囲気だった。先生の服装も男は軍服(当時復員服と称した)、国民服、航空兵のジャンパー、女の先生はモンペ姿といういでたちで、当時の生徒の思い出によると三〇〇名の全生徒中革靴をはいている人がわずか三人だったという。ようやく入手した教室の窓ガラス全部、洋裁のミシン二五台そっくり盗まれるという事件が起こり、校長先生は一時自殺を思いつめるまでにおいこまれたこともあった。元倉庫の校舎はその後次第に内外ともに整備され、学校らしくなっていったが、昭和三十八年には現在の鉄筋四階建の新校舎が建築され、新しい発展の段階を迎えた(『創立二十周年記念誌中延学園』昭和四十一年刊)。

 町田学園は戦後男子商業学校を廃止し、昭和二十一年女子商業となった。学制改革で、女子中学となり、昭和二十九年普通科女子高等学校となった。三十一年商業科が設置され現在に至る。昭和三十四年から三十九年にかけて、鉄筋四階建校舎が新築され、新しい発展をとげた。

 攻玉社は海軍と結びついてきただけに、敗戦によってうけた打撃は小さくなかった。まず、社長・理事長・専務理事・中学校長らが追放された。商業学校長・高等工業校長も自ら退職した。昭和二十年五月空襲で校舎を焼失し本館だけ残っていた。攻玉社の戦後の第一歩は苦難の道であったが、学制改革で新制中学発足後、昭和二十三年高等学校・工業高校、同二十五年短期大学(土木科)、同二十九年商業高校と拡大発展の一路をたどった(『攻玉社百年史』昭和三十八年刊)。

 昭和医薬専門学校は昭和二十一年四月昭和医科大学になり、戦後の発展の基礎をきずき、昭和三十四年大学院医学研究科、三十九年薬学部薬学科を設置、三十九年名称を昭和大学に改称、四十二年生物薬学科増設、四十四年大学院薬学研究科設置と発展した。

 杉野女学院は、昭和十九年生徒は女子挺身隊に動員され、校舎も軍需研究所に徴用されたため学校は閉鎖されたのと同じだった。ただ夜間授業だけ続けられたが、それも杉野女学院の規模からみるとわずか一〇〇名たらずの僅かな状態にあった。その上昭和二十年五月の空襲で全校舎を焼失した。戦争は杉野女学院のすべてを奪ったことになる。敗戦一週間で焼け残った建物を利用して再開の気運が起こり、昭和二十一年四月名称も戦前のドレスメーカー女学院に復帰し、志望者一、〇〇〇名を集めて授業を再開した。堂々たる再建ぶりであった。その年の七月校舎復興に着手、二十五年杉野女子短期大学設置、三十九年杉野女子大学と飛躍的な発展をとげた。杉野学園の発展は戦後民主化、女子教育の普及の反映でもあった。

 星薬学専門学校は戦後の学制改革で昭和二十五年星薬科大学となり、新しい歩みをはじめ、同三十八年衛生薬学科の増設、四十四年大学院設置と発展した。

 立正学園は昭和十九年学徒動員で品川電機・日本ゴム・品川製作所に生徒をおくり、学校工場となった。昭和二十年四月には、甲府・新潟・川崎市の奥の鶴川村に疎開した。不運にも甲府の疎開先で米軍の空襲で戦災をうけ、五月の空襲で幼稚園を除く全校舎を焼かれてしまった。その上、敗戦の年に創立者の馬田行啓を亡くした。敗戦とともに登校生一三〇名で授業を再開したが校舎がないため、品川電機の青年学校の校舎(大田区雪ケ谷)をゆずり受けて急場をしのぎ、登校者がふえてくるにつれて日本光学翠光寮(目黒区緑ケ丘)を借用、さらに日本光学所有となり、米軍に接収されていた旧川崎市立高津高等女学校の校舎を手に入れ、昭和二十一年九月開設した。戦前、高等女学校・高等家政女学校の二校が中延にあったが、二十一年五月家政女学校は石川台分校に移して、校名を立正学園石川台高等女学校に変更した。昭和二十三年二月木造校舎が再建され、緑ケ丘分校を撤収して本校に結集した。学制改革で女子中学校を設立、続いて女子高等学校が新しく発足した。昭和二十八年女子短期大学設立、同三十五年、四年制大学への計画と短大学科増設のため、鉄筋四階の校舎を新しく建設、同じく戦後女子教育の発展に貢献した(『立正学園創立三十五年史』昭和三十六年刊)。

第209表 品川区の私立の小学校・中学校・高等学校
区分 校名 位置交通 (郵便番号) 電話 学校法人名
理事長名
校長名 男・女共学別 設置年月日
小学校 小野学園 西大井一―六―一三 (一四〇) (七七四) 一一五一 (高)小野学園 小野時男 男・女 昭二七・三・三一
大井町(私)立会川 (代) 小野時男
豊町二―一六―一二 (一四二) (七八六) 一七一一 (小)日本音楽学校 三浦泰 昭二五・三・三一
(私)下神明 三浦泰 (休校)
中学校 小野学園女子 西大井一―六―一三 (一四〇) (七七四) 一一五一 (高)小野学園 小野時男 昭二二・四・一
大井町(私)立会川 (代) 小野時男
攻玉社 西五反田五―一四―二 (一四一) (四九三) 〇三三一 (大)攻玉社学園 青木正栄 昭二二・四・一
(私)不動前 野崎一郎
香蘭女学校 旗の台六―二二―二一 (一四一) (七八六) 一一三六 (高)香蘭女学校 佐藤裕 昭二二・四・一
(私)旗の台 (代) 佐々木順三
品川 北品川三―三―一二 (一四〇) (四七四) 四〇四八 (高)品川高等学校 漆光 昭二二・四・一
(私)北品川 漆雅子
青蘭学院 二葉一―六―六 (一四一) (七八一) 一五〇二 (高)青蘭学院 青田房子 昭二二・四・一
(私)下神明 (七八二) 一五〇二 青田滝蔵 (休校)
中延学園 西大井六―一―二三 (一四〇) (七八四) 二一三一 (高)中延学園 佐藤敏行 昭二二・四・一
(私)中延 (代) 佐藤敏行 (休校)
立正 大崎四―二―一六 (一四一) (四九二) 四四一六 (大)立正大学学園 石川存静 昭二二・四・一
五反田 四四一七 梅山信太郎
立正女子大学教育学部付属立正学園 旗の台三―二―一七 (一四一) (七八三) 五五一一 (大)立正学園 小尾乕雄 昭二二・四・一
(私)旗の台、荏原町 小野トシ
豊町六―一六―一二 (一四二) (七八六) 一七一一 (高)三浦学園 三浦泰 昭二二・四・一
(私)下神明 三浦泰 (休校)
高等学校 小野学園女子 西大井一―六―一三 (一四〇) (七七四) 一一五一 小野学園 小野時男 普・商 昭二三・三・一〇
大井町(私)立会川 (代) 小野時男 (定・課程停止)
攻玉社 西五反田五―一四―二 (一四一) (四九三) 〇三三一 (大)攻玉社学園 青木正栄 昭二三・三・一〇
(私)不動前 (代) 野崎一郎 (定・課程停止)
攻玉社工業 西五反田五―一四―二 (一四一) (四九三) 〇三三一 (大)攻玉社学園 青木正栄 昭二三・三・一〇
(私)不動前 (代) 野崎一郎 (土木、建築) (休校)
攻玉社商業 西五反田五―一四―二 (一四一) (四九三) 〇三三一 (大)攻玉社学園 青木正栄 昭二九・三・一七
(私)不動前 (代) 野崎一郎 (定・課程停止)
香蘭女学校 旗の台六六―二二―二一 (一四一) (七八六) 一一三六 香蘭女学校 佐藤裕 昭二三・三・一〇
(私)旗の台 佐々木順三
品川 北品川三―三―一二 (一四〇) (四七四) 四〇四八 品川高等学校 漆光 普・商 昭二三・三・一〇
(私)北品川 漆雅子 募集停止
青蘭学院 二葉一―六―六 (一四一) (七八一) 一五〇二 青蘭学院 青田幸夫 普・商 女共 昭二二・三・一〇
(私)下神明 (七八二) 一五〇二 青田房子 普・商
中延学園 西大井六―一―二三 (一四〇) (七八四) 二一三一 中延学園 佐藤敏行 家・デザイン 昭二三・三・一〇
(私)中延 (代) 佐藤敏行 普・商
日本音楽 豊町二―一六―一二 (一四二) (七八六) 一七一一 三浦学園 三浦泰 普・音 昭二三・三・一〇
(私)下神明 一七一二 三浦泰
町田学園女子 南品川五―一二―四 (一四〇) (四七四) 二二三一 町田学園 上原好一 普・商 昭二五・三・一四
大井町(私) 青物横丁 (代) 嵯峨公元
立正 大崎四―二―一六 (一四一) (四九二) 四四一六 (大)立正大学学園 関勝興 昭二三・三・一〇
五反田 四四一七 梅山信太郎 (定・課程停止)
立正学園女子 旗の台三―二―一七 (一四一) (七八三) 五五一一 (大)立正学園 小尾乕雄 普・家 昭二三・三・一〇
(私)旗の台 荏原町 (代) 小野トシ (定・課程停止)