敗戦と区民

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昭和二十年八月十五日、太平洋戦争は日本の無条件降伏で終わった。品川区・荏原区の大多数の区民は、敗戦で大きな精神的打撃をうけた。軍部指導者が唱える本土決戦がいったいどんな状況になるのか、まるで見当もつかない人々が多かったが、それでも、あくまで〝聖戦遂行〟を信じていた。むろん、米軍の無差別爆撃によるみじめな戦災や、沖縄の占領から戦局があきらかに日本に不利であることも、すでに知っていた。だから、戦争が終わり連日の空襲がなくなって、ほっとしたというのがいつわらない気持だった。両区民が敗戦をどううけとめたかは年齢や体験、職業の違い、階級・階層の違い、思想的立場や社会認識の違いなどによって、実にさまざまであったろう。

 敗戦で社会的な混乱や失業、インフレーション、食糧危機、その上に外国の軍隊の占領という大きな不安と不幸が、区民にのしかかったけれども、他方では戦争が終わり、空襲がなくなり、さらに軍国主義から「民主化」への転換がはじまったことは、区民にとって歓迎すべき変化だったのである。

 敗戦の積極的な面を、区民のなかでは少数だったけれども、敏感に見抜いて、敗戦と同時に民主化運動に乗りだした人々がいた。その最も代表的な人々が松岡駒吉や鈴木勝男などであった。労働組合再建の一方の中心人物だった松岡駒吉の大井の家は、センターになった。

 「われわれは終戦と同時に松岡駒吉さんの所にとんでいって、『これからの労働運動の中心になるのはあなただから、出て下さい』といったんだが、松岡さんは『占領軍に命令されてやるような労働組合はいやだ。われわれがやるには、まず産報を解散させなければならぬ。だからいま方々説いてまわっているところだ』という調子だ。……そのうちにいよいよ『松岡さんを中心にやろうじゃないか』ということになり、高野実さんらの旧全評の人たちや、もとの東交関係の北田一郎・島上善五郎の諸君などが何名か松岡さんの所に押しかけて奮起を要請したので、ようやく松岡さんも腰を上げた」(渡辺年之助、『戦後の労働立法と労働運動』(上)日本労働協会、五一―五二ページ)。

 旧合法左翼の高野実も松岡の家をたずね、そのときの思い出を次のように述べている。

 「大井駅をおりて、焼野原と突切り、いくつかの横丁を曲りくねったが、松岡の家は見当らなかった。あとで恥しくおもったことであるが……松岡の家というのは石畳の塀にでもかこまれた大邸宅だろうという先入観念があったからだ」(高野実『日本の労働運動』一〇ページ)。

 他方、戦後革新勢力の左派を構成した共産党系の人たちも敗戦と同時に、両区内で労働組合や住民運動を組織していった。たとえば品川区民で国鉄職員だった鈴木勝男は、二ヵ月も前から敗戦を予想し、組織化の準備をすすめ、「天皇のポッタム宣言受諾の放送をきいて、手を叩いて喜び……天皇の話が終わるや『いよいよ、われわれの時代が来た』と集まっている職場の労働者に演説をした」(「鈴木勝男氏に聞く」)。彼は、昭和二十一年国電安全運転闘争を闘った省電中央労働組合を組織し、その委員長になった。

 荏原区民の新小田英二も「天皇の敗戦の放送をきいて、助かったと思いました」(「新小田英二氏に聞く」)という。というのは本土決戦にでもなれば、かつて戦争反対をした無産運動家たちは、軍部から殺されるのではないかという、人にいえない恐怖があったからである。

 敗戦が区民の大多数にとっても一つの解放と、「民主化」の第一歩を意味していたから、これら少数の人々は、いわば区民の先覚者だったといえよう。