国鉄大井工場の苦闘

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戦争で区民生活は破綻し、あらゆる施設は老朽していた。とくに朝夕の通勤に、食糧買い出しに、区民の重要な足の役割を果たしていた国電は、惨たんたるありさまだった。窓ガラスは方々割れて、板をうちつけてあったし、時にはドアーもなくて、棒をわたしてあるだけの車両さえあった。満員電車のドアーがはずれて乗客がふり落とされるなどという事故がしばしば起こった。買い出しに殺到する乗客・通勤客は、大井町駅・大崎駅・五反田駅・目黒駅でも駅員が乗客の尻押しをして、ドアーもはち切れそうになるほど満員になった電車は、きしみながら走っていた。輸送力が落ちて食糧危機がいっそう倍加されると、買い出し客が殺到し、輸送機関の損耗がさらに大きくなるという悪循環だった。しかも、国電の約五〇%は戦時中に「三年もてばよい」として粗製乱造された六三型だった(「鈴木勝男氏に聞く」)。戦災と資材不足で動ける車両数はがっくり減っていた(第210表参照)。満員になるとすでにスプリングのきかなくなっている電車は、ほんのちょっとした障害物があっても脱線あるいは転覆の危険性があった。この危険性を誰よりも一番よく知っていたのが国電労働者、とくに電車区労働者、つまり運転士たちだった。鈴木勝男が委員長だった省電中央労組が、くりひろげた国電安全運転闘争の基礎には、こういった電車の荒廃があったのである。ことに、戦時中六三型がつくられたとき、「現場中堅幹部を集めて、奮励努力せよ式の話があった。その時『六三型は保全がむつかしく三年もてばよいという設計』だというので、僕は『三年したら戦争に勝つ見込みがあるのか』と質問したら、危険思想視される始末でした。」(「鈴木勝男氏に聞く」)といういきさつがあった。省電中央労組委員長にとって、安全運転闘争は、いわば戦時体制下から継続したたたかいだったともいえよう。

第210表 国電の荒廃
時期など 電動車 付随車
戦前 839 725 1,564
戦災による不良車数 157 154 311
昭和21年4月現在 673 571 1,244
うちわけ 可動車 502 476 978
休車 86 29 115
その他 85 66 151

(備考) 『大井工場90年史』より

 少ない車両は、さらに新しい日本の支配者になったアメリカ軍に徴発され、進駐軍占用車 ALLIED FORCE SECTION と書かれた白いペンキ帯の車が、すし詰めの故障だらけの車両に別世界のように連結されていた。


第170図 白帯が目立つ進駐軍用電車(連合軍専用車)

 電車の修理を担当していた大井工場では、資材不足から、たとえばモーター修理能力は戦前の二〇%にまで低下してしまったとさえいわれていた。急場しのぎに大井工場では、修理作業の一部を府中刑務所の受刑者に、昭和二十一年六月から同二十四年四月までのあいだ委託したこともあった。受刑者三〇名は特別仕立の電車で府中から大井町まで「通勤」していたが、それをみた人々は、最初「囚人電車」と呼んでいたのに、いつしか「あれは大名電車だよ」とよぶようになった。それは満員電車にくらべるとゆったりとすいていたからであった。修理作業に従事した受刑者たちの座談会がJOAKから放送されたこともあったが、刑務所長が「組合運動の邪魔にならないようストの場合には自発的に休みます」と発言したのも、労働攻勢のご時世だった。