国電の車両製造と修理を受けもつ国鉄大井工場は、国電の心臓部ともいうべき重要な位置を占めていた。大井工場でも昭和二十一年一月三十日労働組合が結成された。大正十年(一九二四)以来大井工場の労働者(木工)だった権正博は終戦を下河原分工場で迎え、大井工場に戻ってくると「現業委員会が復活することになり、委員に立候補するように周りの者から言われた。そのとき、それが労働組合に移行するものであるなら立候補してもよいということで引き受け、職場から一番で当選しました。網代の寮で大井工場と大宮工場の合同の現業委員会が開かれ、そこで労働組合結成の話がきまり、現業委員会は一回だけで終わり、労働組合になったのです」(「権正博氏に聞く」)。
最初の現業委員会復活に際して官側からの指導があったことは事実らしく、委員の大部分は職長など役付クラスで、二―三人は職工だったという。
昭和二十一年二月八日、国鉄労働組合の東京地方における最初の地域組織である国鉄労働組合東京地方協議会が、上野管理部全労働組合から提唱され、田端電力区で結成会議が開かれた。大井工機部労働組合もこれに結集し、新谷憲輔が代表として出席した。二月十五日の東京地方国鉄従業員大会で火ぶたを切った闘争のなかで、大井工機部片山末吉が作戦本部員に選ばれた。
二月二十七日国鉄労働組合総連合が結成された後、地域組織として国鉄東京地方労働組合へと一本化した。これにともない大井工機部労働組合も国鉄東京地方労働組合大井工機部支部として編成された。
他方、東京地協と省電中央労組の間の統一が協議され、省電中央労組は解体して支部単位で合同するように話合がまとまった。国鉄東京地方労組には執行委員に鈴木勝男、大井の片山末吉らが就任した。四月十九日国鉄東京地方労働組合は、産別会議準備会に加盟した。産別会議に加盟したのは国鉄の組合ではただ一つ東労だけであった。六月二十六日産別会議結成大会で国労東京労組を代表して鈴木勝男が「産別会議の当面の闘争方針について」の提案説明を行なった。
戦時中は、まるで軍隊のような統制と訓練が行なわれていた大井工場に労働組合が根を下ろし、急激な民主化が進んだが、これは、時代の急変を象徴していた。権正博は昭和二十一年十月から翌二十二年三月まで副委員長に、同年三月から翌二十三年四月まで二期委員長に選ばれ、労働者の待遇改善・民主化・生活危機突破の難題に取り組んだ。