米よこせ運動

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敗戦後の食糧不足とインフレーションは、区民の生活をどん底の飢餓状態におとしいれた。配給の食糧だけでは栄養失調になった。なかには餓死する人もでた。その乏しい配給さえ、遅配・欠配が続いた。その上に、激しいインフレーションで物価はうなぎのぼりに高くなり、給料だけでは一ヵ月の食費の四分の一、つまり一週間分しかなかった(昭和二十二年二月ころ)。米だけの主食は、ほとんど口にすることができなかった。たいていは、黒い小麦粉に、ふすまやとうきび・こうりゃんの粉をたくさん混ぜ、だんごにしたものを塩汁で煮込み、大根の葉やいもの葉柄、たべられる野草を浮かべた〝すいとん〟、〝だんご汁〟が主食というありさまだった。昭和十二年の賃金を一〇〇とすると、昭和二〇年十二月の実質賃金は一四・二、七分の一以下に下がっていたのである。収入の七〇%から一〇〇%が食費にまわされても間に合わないという窮乏状態だった。

 区民のどの家庭も農村に買い出しにでかけた。すし詰めの満員電車にリュックサックを背負い、米は貨幣では売ってくれないので、大事な晴着や外出着と物々交換で米を分けてもらっていた。米がもらえれば運がよかった。買い出しの多くは、さつまいもだった。

 「一九四六年四月ころ、もうどうにもならないと思って、私たちは近所のおかみさん連中と六四人でしたか、連れだって、荏原区役所に米よこせの陳情にいきました。てんでに米をわけてもらうためのバケツを手にもってでかけました。これが、きっかけになって荏原・品川における米よこせ運動が、無数の路地裏デモから横町デモという形になって、はじまったのです。区役所ばかりでなくて、民生委員が会合していると聞くと、そこへも押しかけたりしました」(「新小田英二氏に聞く」)。

 黙って坐って飢え死するよりも、立ち上がって声をあげて要求する闘いの道が、えらばれたのである。旧品川区でも高木陽一が同じように組織した米よこせ運動がくりひろげられた。


第171図 食糧配給の絶対確保を期する陳情書

 この米よこせ運動に、国鉄の大井工場や、日本光学はじめ工場労働者がしだいに参加するようになった。工場にいても、動力の送電もしばしば停止されるし、原料もなくて仕事にならない、その上賃金では生活できないからだった。中延小学校で飯米要求の区民集会に参加し演説した鈴木勝男が、MPに逮捕されるという事件も起こったりした。

 五月十二日、日曜日、世田谷区民一〇〇人余りが野坂参三らの音頭とりで米よこせと二台のトラックで皇居に押しかけた。二日後の十四日、これを聞いた品川・荏原の区民たちも加わって、全都から六〇〇名を超える民衆が赤旗を押し立てて、インターナショナルの歌を高唱しながら坂下門外に坐りこんだ。かつてないできごとだった。

 この米よこせ運動のもり上がりが、五月十九日(日曜日)の食糧メーデー=飯米獲得人民大会となって爆発した。皇居前広場は二五万の大群衆で埋められた。二重橋を背景に、三台のトラックを並べた演壇に、つぎつぎと弁士が立って飢餓をうったえ、食糧危機突破を訴えた。赤旗が揺れ、メーデー歌が津波のようにとどろいた。国民学校の生徒が給食をしてくれと訴え、母親が天皇陛下から裏切られたと訴えると会場はシーンと水をうったように静まりかえった。学童への給食復活を訴える国民学校の生徒は、「僕たち私たちは、お腹がペコペコです」と書いたプラカードもって多勢が参加した。

 食糧メーデー前後が、食糧危機の頂点だった。五月二十四日、天皇の、国民のために全国農村に食糧の危機を訴える放送が行なわれたりした。

 五月十九日、結集したエネルギーを基礎に関東食糧民主協議会が結成され、持続的な民衆自身の手による民主的な食糧闘争・生活防衛の闘う組織となった。品川・荏原両区の協議会の地域組織がつくられた。

 荏原区住民運動を組織した新小田英二は「敗戦後しばらく綿打ち直しの商売をやっていましたが、盗難でぶっそうなので、毎晩ひょうしぎを叩いて夜まわりをやったのですが、それが町内の人から信頼を集める一つの原因になったかと思います。それから、今でも町の人々の笑い草になっている話があるのですが、入党して細胞をつくり、細胞で敗戦直後のいつだったか忘れましたが、反戦デモをやったのです。私たちが白装束をして、傷い軍人のかっこうをして、小山の町を共産党のビラを撒いてまわったのです。びっこをひきながらね。水たまりにたおれたりしてね。ところが、みんな敗戦で放心状態ですから、関東ガス・電力会社・電話局、どこでもどんどん入っていって労働者一人一人にビラを渡したのです。こんなことが、そのあとの米よこせ運動に実を結んでいったといえるでしょうか」(「新小田英二氏に聞く」)。

 かれらは、生産管理闘争も指導した。「何という工場でしたかね、十六人くらい働いている機械工場で、佐々木君という人が委員長でしたが、生産管理闘争に入ったんですが、原料がある間、最初のうちは景気よくやってたんですが、だんだんうまくいかなくなった。というのは販売がうまくいかないんですよ。ちょっと後になりますか、北辰電気でも労働者が一三〇人くらい工場にたてこもってやったんですが、警視庁機動隊が三箇中隊もやってきて、高木氏がMPにとらえられました。生産管理はもう、ほうぼうの工場でやられておりましたね。これらの闘争のなかで大田の石井鉄工所の伊藤憲一らの肝煎りで城南工代会議が生まれ、関東労協から、やがて産別会議に発展していったんですが、品川・荏原は城南の一つの拠点にもなったといえると思います」(「新小田英二氏に聞く」)。